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2020年12月 5日 (土)

後白河院分国周防

 周防国が後白河院分国であることが確認できるのは安元三年正月二八日に藤原季能が国守に補任され、六月二八日に讃岐守に遷任するまでの五ヵ月のみであるが、季能の後任の周防守藤原能盛の在任時期を含めて実際にはもっと長かったことを述べた。
 今回とりあげるのは、承安二年二月二九日に前筑後守従五位下藤原朝臣季助が現在の防府天満宮に安置した金銅宝塔銘である。そこには、周防国が後白河院分国であった際に、目代として国務を奉行した縁で塔を安置したと述べている。季助が誰の目代であったかが問題となるが、仁安二年一月一九日に周防守の重任を認められている藤原季盛であろう。季盛は尊卑分脈等の系図にはみえないが、父俊盛が国主であった周防の国守であった。俊盛の嫡子季能が国守である讃岐は長寛元年正月二四日以来、俊盛の知行国であった。俊盛は美福門院のもとで国守を務め、その死後は娘八条院庁の別当であった。
 当時の政治は後白河院の子二条天皇が主導していたが、天皇は病気がちで、永万元年六月二五日には幼少の六条天皇に譲位し、翌月二八日には二三才で死亡した。そのため、後白河院がしだいに政治の主導権を回復していく。二条天皇を支えていたのは関白藤原基実とその室盛子の父である平清盛であった。ところが基実も天皇の死の一年後の永万二年七月二六日に二四才で死亡し、その後は名実ともに後白河院政が復活した。仁安二年正月一九日には後白河院が法住寺新御所に移徒しているが、これは前年に讃岐・周防両国主俊盛に造営を命じる院宣が出されていた。長寛元年以来の讃岐国に加えて、新たに周防国が俊盛の知行国とされ、俊盛の子季盛が国守とされた。
 仁安元年一〇月二一日に俊盛は大宮(多子)権大夫に起用されており、この時に季盛の任官とともに造営を命じる院宣が出されたと思われる。多子は近衛天皇の皇后であったが、忻子が後白河中宮となり、統子内親王が後白河准母として皇后となったことで大皇太后となり、次いで二条天皇の求めに応じて二度目の入内を行った。二条の死により大皇太后多子の存在は低下したが、後白河院は俊盛を自らの年預とするとともに、大宮権大夫という新たなポストを与えたのである。次いで御所造営が完成し、移徒が行われると、勧賞として周防守季盛を従五位上に叙した。この季盛の目代となったのが弟季助であった。系図には俊盛の嫡子季能の子に「季輔」がみえるが、これが季助の事で、其の後、筑後守に補任されるとともに、兄季能の養子となったのであろう。ただし、季盛は嘉応元年六月二三日(兵範記)が、季輔(助)も承安二年の金銅塔銘が終見で、その後の動向は不明である。
 以上、二条院と基実の死により主導権を回復した後白河院により仁安元年一〇月に周防国がその院分国とされ、そのもとで知行国主俊盛、国守季盛、目代季輔(助)という体制がとられたことが明らかとなった。季盛の前任者は応保二年正月二七日補任の源時盛であり、後任は仁安三年八月一二日補任の高階信章であり、ともに美福門院の娘八条院の関係者であった。ただし信章は不祥事により嘉応二年七月に叙籍・解官され、その跡には時盛の兄有房が起用されたと思われる。次いで治承元年正月に再び周防国は後白河院分国となり季能が遠江守から遷任してきた。

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