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2020年12月11日 (金)

藤原家信の三河守補任

 院政期国司補任表は丹波から西へ進み周防まで完了し、愛知県史を参照して尾張を終え、三河を作成している。そのトップバッター藤原家信は康和元年(一〇九九)一一月二一日条(本朝世紀)で見任が確認できる。五味文彦氏作成の表では、承徳元年に藤原仲実の後任として補任されたことが記されているが、その時期については、仲実が備中守に遷任した後とのみ記されている。それをもう少し絞り込んでみたい。『愛知県史』をみても、関係史料は掲載されているが、その先の解釈はなされていない。それをするためには全国の状況をみなければならない。『愛知県史』関係者では松島周一氏が鎌倉時代の知行国の問題について、県史研究などを通じて、県史の国司表の修正を行っているが、院政期についてはそれがなされていない。当方も現段階では一一世紀後半から承久の乱あたりまでが作業の中心であるが、『国司一覧』の承久の乱から鎌倉末までについてもエクセルの表に落として(なお未完成で地域により精粗がある)、必要に応じて情報を追加(松島氏の論文、県史等)している。院政期と鎌倉後期の両方を守備範囲とする研究者は皆無なのが現状である。
 藤原仲実は一〇八二年から一〇八九年にかけて二期八年備中守を務め、源政長に交替している。間を置かず次の国に遷任するのは珍しく、一〇九四年一二月になって三河守に補任された。そうしたところ一〇九七年閏一月四日に備中守源政長が死亡したため、その後任として備中国に精通している仲実が急遽選ばれた。そして空席となった三河守に藤原家信が起用された。政長は白河院近臣となった有賢の父である。仲実は宇合流能成の子で両国以外に紀伊、越前守を歴任し、歌人として歌合わせにも参加している。頼通の子でありながら養子に出された子の一人である定綱の子が家信で、こちらも歌会に参加しているが、受領補任は三河のみのようである。家信にとってはチャンス到来であった。
 仲実の二度目の備中守見任が確認できるのは康和二年(一一〇〇)四月二八日であるが、補任時期との関係で問題となるのが、一〇九七年三月二六日に参河・周防匙文について協議されていることである(中右記、五味氏の表には未掲載)。「匙文」については今一つ意味が不明である(この時期の専門家には常識であろう)が、国司が交替した後に(のみではない)提出されていることが多い。一〇九六年一月の除目で淡路守と安房守が補任され、二月前半には両国から匙文が提出されている。一〇九七年正月には和泉守、周防守、伊賀守が補任され、三月に周防から、一二月には和泉・伊賀・周防から匙文が提出されている。一〇九八年六月には上野国から匙文が提出されているが、これは藤原邦宗から敦基に交代した(正確な時期は不明)ことに伴うものであろう。
 ということで、参河と周防の匙文が協議された三月二六日以前に、仲実は備中に遷任し、家信が三河守に補任されていた。正月三〇日の除目終了直後の閏一月四日に政長が死亡したための人事であった。

 

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