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2020年12月13日 (日)

藤原顕長について1

 顕長は顕隆晩年の子(一一一八年生)で、母は村上源氏大納言顕通の娘である。初めは頼教、次いで顕教とした後に顕長と改名している。保安四年(一一一二三)二月一六日に中宮(璋子)御給で叙爵(六才)した時点では「顕教」であった。「教」には異母兄顕頼ならびに藤原家政の妻となった娘が産んだ五才年長の雅教との関係がうかがわれるが、永久三年(一一一五)の家政の死後、娘は藤原俊忠に再嫁し、豪子ならびに俊子を産んでいる。豪子は德大寺公能(母は顕隆娘で、同母姉が頼長室となった幸子)との間に忻子(一一三四年生)、実定(一一三九年生)、多子(一一四〇年生)以下六名の子女を産んでいる。俊子は顕長との間に長方を産んでいるが、德大寺実定の室となった娘と雅教の子雅長の室となった娘も俊子の子である可能性が高い。顕隆には藤原清隆の室となり、次いで顕隆の異母弟朝隆に再嫁し、嫡子朝方を産んだ娘、さらには藤原忠隆の室となり崇德天皇の乳母となった栄子、顕隆の同母兄為隆の子憲方の室となった娘もおり、その間に嫡子頼憲、平教盛の嫡子通盛の室、德大寺実家(公能と俊忠の娘の子)室が生まれている。母が不明だが、三条公教の室となった娘も同母姉妹であろうか。公教の室として知られるのは憲方娘と清隆娘である。
 顕長は天治二年(一一二五)正月(八才)には本院(白河)分紀伊国の国守となったが、大治四年正月には父顕隆が五八才で死亡した。白河院没後の大治四年一二月二九日(一二才)に越中守に遷任、翌年三月に造中宮(聖子)御所賞で従五位上に叙せられ、一〇月に右兵衛佐を兼ねた。長承三年(一一三四)正月(一七才)に兵衛佐労で正五位下に叙せられ、二月には兵部大輔に補任された。その後、参河守(補任時一九才)、遠江守(同二八才)を経て久安五年(一一四九)四月に三二才で参河守に再任された。紀伊国は父顕隆の知行国で、越中国は兄顕頼の知行国であり、参河守以降は独立した国守であろう。久寿二年(一一五五)年一二月に参河守を辞して子長方を丹波守に申任じたが、これにより丹波国知行国主となった。

 

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