koewokiku(HPへ)

« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »

2020年12月

2020年12月31日 (木)

和泉守源盛季とその一族

 二中歴に大治三年一月二四日の除目として、「和泉源盛季・使、甲斐藤原範隆・相替和泉」と記されている。醍醐源氏盛季が和泉守に補任されたのはよいが、藤原範隆が和泉守から甲斐守に相替ったのが相博と同義であるかが問題である。盛季には「使」とあり、前任の範隆が甲斐守に遷任した跡に検非違使枠で和泉守に補任されたと解釈できる。
 康和四年八月一〇日には「丹後・越前相替」(中右記)とあるが、これは丹後守高階為家と越前守藤原家保が相博したことを記している。保安二年一二月二九日には「遠江高階宗章〔十欠ヵ〕二月廿九日若狭相替」とある。宗章が若狭守から遠江守に遷任しているが、遠江守藤原為隆は若狭守に遷任しておらず、その子憲方が出雲守に補任されている。そして出雲守藤原隆頼が若狭守に遷任している。二国間ではなく三国間で交替がなされたものであり、これを単に宗章のみについて記した記事であった。二中歴に憲方と隆頼の記事もあれば理解は早かったが、それはなく、憲方については為隆の公卿補任と弁官補任の記事で確認できた。残る隆頼については父基隆の人事と連動していなかったので確認できないが、若狭守見任は確認できるので、保安二年一二月末に遷任したことは確実である。
 大治三年一月の人事が相博かどうかは、盛季の経歴を確認するしかない。盛季は淡路守や中宮大進を務めた盛長の子で、兄弟である盛家は摂津守、盛経は隠岐守補任が確認できる。その一方で三人とも摂関家家司や職事を務めていた。それは盛長の兄弟盛雅も同様で、忠実の職事となる一方で、上總介、伊豆守、尾張守に補任されている。盛雅のみは三ヶ国の補任が確認でき、上国で従五位下相当の尾張守に補任されている。盛家が国守に補任された摂津も上国であるが、その他の和泉、伊豆、隠岐、淡路は従六位下相当の下国である。上総国そのものは従五位上の大国であるが、親王任国で次官である介は正六位下相当である。これに対して問題となっている甲斐国は上国であり、和泉守から甲斐守への遷任はあっても、その逆は知行国主が存在するなど特別な理由が無い限りあり得ない。
 醍醐源氏の盛雅、盛長兄弟とその子達の動向は摂関家関係者の日記にしばしば登場するが、『尊卑分脈』では名前のみで、任官歴はほとんど記されていない。系図にのみあって日記などの一次史料では確認できないというケースが普通だが、この場合は逆である。盛雅の子盛行は受領補任歴はないが忠実の家司として活動する一方で左兵衛尉から検非違使に補任され、待賢門院判官代となり、女院女房津守嶋子を妻としていた。永治二年正月に得子を呪詛したとして土佐への処分となったが、後に都へ帰ることを許され、仁平二年三月に死亡したことが本朝世紀に記されている。盛行の子として尊卑分脈に記されているのは親行のみであるが、永久四年正月二八日には正六位上左馬允源盛行が前例に準じて左馬允を子盛賢に譲ることを申請している(除目大成抄)。藤原重方との間に能頼を産んだ上西門院官女の父前帯刀源盛賢(尊卑分脈顕隆孫)と盛行の子盛賢は同一人物であろう。系図には官職どころかその人物が存在した情報すらみえないが、実際には盛行の子孫は生き延びていたことがわかる。
 これまで述べてきたように源盛季の甲斐守補任は確認出来ず、範隆は源雅職の後任として甲斐守に補任されたと考える。

辞職と申任2

 なお基隆の嫡子忠隆は康治二年に大膳大夫を辞して子基成を陸奥守に申し任じ、久安五年一〇月には大蔵卿を辞して子家頼を長門守に申任じている。
 基隆が内蔵頭、大膳大夫、修理大夫を辞任したのは子隆頼・経隆・基隆を申任ずるためのものであったが、辞任と補任との間にタイムラグがあったため、公卿補任基隆の項には「申任」との記載はなされなかった。なお、基隆には雅隆という子(忠隆、経隆と同母)がおり、分脈には「陸奥守」とあるが、補任されたのは基隆どころか忠隆も死亡した後の保元二年八月であった。九月一九日には雅隆が鎮守府将軍に補任されるとともに、陸奥に赴任した賞として加級されて従五位上に叙せられている。雅隆は甥(忠隆の子)信説が武蔵守に遷任した後任となった。武蔵守は忠隆流の中心となっていた信頼であったが、信頼は弟信説を国守として武蔵国知行国主に格上げされた。次いで翌保元三年二月には信頼が参議に補任されて公卿となり、五月には陸奥造営賞として従三位に叙せられている。叔父である陸奥守雅隆の賞を譲られた形でとの評価も可能だが、本来なら前年一〇月に行われるはずのものであった。ところが八月に信説から雅隆に交替したことで棚上げされていたものであろう。信説が信頼知行下の武蔵守となっており、三年五月に陸奥守信説への勧賞を信頼に譲る形で決着したものであろう。
 以前は、元木泰雄氏の説を検討する形で信頼の知行国について述べたが、結論的には保元二年正月に信頼の弟(母は不明)信家が国守となった長門国と、同年八月に同母弟信説が国守となった武蔵国の二例であろう。長門国は忠隆の知行国として信頼の同母弟家頼が国守となった(1149.10.19)が、翌年八月には忠隆は死亡した。同じく忠隆の知行国土佐の国守であった信頼は、忠隆の死(8.3)の直前(7.28)に武蔵守に遷任していた。忠隆の死を受けて両国とも国主なしに移行したのだろう。信頼は一八才、家頼はさらに若年であるが、母の同母兄で従四位上右中弁の地位にあった二七才光頼のサポートを受けたと思われる。同母弟信説は信家とともにその名に頼を付けていないが、信説は母の兄弟説頼との関係がうかがわれる。

辞職と申任1

 本人が現任を辞して子などの関係者を申し任ずることはよくみられる。近臣の場合は、それほど間を置かずに新たな職を得る事が多い。一方、辞してからそれほど間を置かずに関係者が職に補任されることもある。同時でなければ「申任」とは表現されないが、実質的には同じではないか。
 ここで扱うのは院近臣として伊予(二度)・播磨・讃岐を歴任して非参議(修理大夫)公卿となった藤原基隆である。基隆の父家範は安芸・遠江・和泉守を歴任し、正四位下に叙せられ、公卿にならない貴族としては最上位まで進んでいた。その妻家子が堀河天皇乳母となり従三位に叙せられたことが、夫家範と子達が出世・登用された理由であろう。ただし、同母兄弟である基隆と家保の場合、堀河天皇の死後、明暗が分かれる。家保は大江匡房の養子となっていたが、出雲守退任後、新たな官職を得ることができなかった。基隆は当初家政と名乗り、後に基隆と改名したようだが(尊卑分脈)、改名の時期と祖父、父、外祖父とは異なる「基隆」という名に改名した背景は不明である。これまた背景は不明だが、勧修寺流藤原為房の子は系図で知られる六名の男子すべてが「隆」を付けている。
 基隆の計歴で辞職とあるのは①長治三年一一月に内蔵頭を辞したことと、②大治三年三月に大膳大夫を辞したこと、③天承元年一二月に修理大夫を辞したことの三例である。①の場合は翌一二月五日に子隆頼が三河守に補任されている。隆頼の三河守補任日そのものを記した記録は残っていないが、前任者藤原伊通が三河から備中に遷任した記録から判明する。②の場合は、子経隆が一二月二九日に周防守から出雲守に遷任している。経隆は基隆の嫡子忠隆の同母弟であり、隆頼は異母兄である。生年は不明だが、いずれも十代で、父基隆が知行国主であった可能性が高い。これに対して③は天承元年一二月二四日に嫡子忠隆が備中守から伊予守に遷任している。父の辞任から九ヶ月後で、且つ忠隆は鳥羽院近臣で伊予守に補任されるのは当然のことではあるが、異例であったのは同母弟経隆が讃岐守であったことである。これにより、院寵臣の指定席である播磨・伊予・讃岐三ヶ国中二ヶ国を基隆の子が占めるという異例の人事が可能となった。庶弟経隆は鳥羽院寵臣家成の子隆季が讃岐守に補任された保延四年一二月まで、二期八年讃岐守に在任した可能性が高く、次いで但馬守に遷任した。

 

2020年12月14日 (月)

藤原範季の花押

 藤原範季は日野資憲の娘と平教盛との間に生まれた教子を室とし、平家の都落ち時に都に残された高倉院の第四皇子尊成を養育していたこともあって、尊成が鳥羽天皇として即位すると、教子との間に生まれた重子が天皇の後室に入り、守成(順徳)を産んだ。重子は範季五三才時の子であり、長男とされる範時とは一六才離れており、教子は範季の後室であった。
 範季は建久八年八月に重子が守成親王を産んだため、一二月には従三位に叙せられ公卿となった。そのため建久一〇年四月 日には揖屋社領家として政所下文を発給していた。当然、政所下文に範季の花押はないが、中野栄夫氏が「元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について」(法政史学43、1991年)の中で、当該文書の袖判が知行国主範季のもので、奥上判がその子ないし孫範周のものであることを説いている。
 範周は範時の長子範時の子(系図)とも舎弟(公卿補任)ともされるが、元久元年正月一七日に東宮学士兼式部権少輔であった範時が淡路守を辞して範周に譲っている。そして範季が五月(公卿補任は翌二年正月とするが誤り)一七日に死亡したため範時は喪に服し、八月一六日に復任している。
 重子の同母弟範茂は承久二年正月に参議、次いで六月には従三位に叙せられたが、承久京方で処刑された。一九才年長の異母兄範時は承久元年正月に従三位に叙され公卿となり、乱後の貞応二年八月に出家している(死亡日は不明)。処分も受けておらず乱には無関係であった。
 前置きが長くなったが、中野氏の論文には寿永3年二月七日後白河院庁牒(平安遺文4128、早稲田大学所蔵)に別当として署判している「式部権少輔藤原朝臣」(範季)の花押と対比して、「庁宣の花押は損害が甚だしいが、残画から見る限り、一致すると見て差し支えないであろう」とされた。ただし、当方がみるところ、似てはいるが、範季ではなく子範時の花押である。範時の花押は建仁元年七月日と建暦二年二月日の後鳥羽院庁下文(九条家文書、熊野速玉神社文書)で確認できる。知行国主の資格については微妙だが、自らが辞して関係者を申任じた場合は辞任した本人が知行国主となることが一般的である。範季は外孫守仁が即位した際の贈官を考えて、出家せずに六六才で死亡した。範時が淡路守であった際は範季が国主であったが、花押により、元久二年正月一七日時点の国主が範時であったことが明確となる。なお『花押かがみ』の比定は刊行後でも訂正され、それが「花押カードデータベース」に表示されるが、当該花押は範季、範時いずれのものともされていない。
 中野氏は当方が学生時代に編纂所に内地留学で来ておられ、研究会や五味文彦氏主宰の『吾妻鏡』輪読会で同席したこともあってなつかしいが(ドイツ人留学生某氏、お茶の水(五味氏の勤務先)の学生さん二名、大学同級の山田邦明氏と一緒に編纂所前で撮影した写真がある)今回の研究ノートの短文は詰めが甘いといわざるをえない。

2020年12月13日 (日)

新型コロナ感染状況

 韓国でも新型コロナ感染者が急増し、一二日には最多の一〇三〇人となった。人口を勘案すると、日本の二五〇〇人に相当する。一方PCR検査数は、一二日は曜日の関係で減少し、一一日の三八六五一件から一三九二〇件減少したようだ。日本の最近の検査数をみると一一月二五日の四五九一七件が最多で、件数だけなら韓国を上回っている。ただし、人口を勘案すると韓国(日本の約40%)の半分程度にとどまっている。日本の検査数も曜日によっては減少し、一二日の一週間前の六日は一三六四五件にとどまっている(データはNHKの専用サイト=厚生労働省オープンデータよりとある=に基づく)。
 これをみてGOTOキャンペーンが原因ではないとする辛坊氏のような暴論もあるが、問題は人の動きの程度がどこまで制限・コントロールされているかである。地域別にみると韓国では北部に位置する首都圏の割合が四分三を占めている。人の動きの多さと気温の低さが関係していよう。日本の場合は東京、神奈川、埼玉を合計すると一〇〇〇人を超え、全体の三分の一弱である。日本の方が感染の広がりが大きい事は一目瞭然である。GOTOキャンペーンを一時的に停止しないかぎり、キャンセル料がかかるため、人々は首都圏とそれ以外の地域を移動する。この流れを止めるのが先決である。ヤフーのデータで直近1週間と思われる都道府県の感染者をみると秋田県の二が最少で、ゼロの地域はない。気温が高い九州でも福岡県を中心に感染者は急増している。
 外国人の入国規制を緩和したことが感染増加の原因だと主張する人は、そのもととなるデータを示さないと、単なるうそつき(デマゴーグ)になってしまう。

藤原顕長について2

 保元元年一〇月に中宮(忻子)亮となったのは忻子の実家である德大寺家との関係が背景にあった。翌二年一〇月には清隆の子隆能の造営功を譲られ、従四位上に叙せられ、その直後に木工頭となると、兼ねていた兵部大輔を甥顕能の末子で猶子としていた皇后宮(呈子)権大進であった顕方に譲っている。三年正月には中宮御給で正四位下に叙せられ、四月には四一才で蔵人頭となり、次いで二条天皇即位前日の八月一〇日には参議に補任され公卿となった。これは後白河との関係ではなく、忻子とその父德大寺公能との関係が背景であろう。公能は娘忻子の入内後、右近衛大将をへて保元二年八月一九日には権大納言に昇進していた。その翌月二日には公能の父実能が死亡している。公能は娘である大皇太后多子が永暦元年正月に二条天皇のもとへ再入内したことで同年八月には右大臣に補任されたが、翌応保元年八月に四七才で死亡した。嫡子公能(顕長娘を室とする)も中納言に進んでいたが、なお二三才であった。実定は長寛二年には権大納言に進んだが、翌年に二条天皇が子六条に譲位後死亡すると昇進は容易ではなくなり、翌年に権大納言を辞して正二位の位階を得たが、その後一二年間は散位のままであった。
 顕長も長寛二年正月には権中納言に補任されたが、その後の停滞し、永万二年六月には兼務していた左衛門督を辞して、外孫(娘と公能の間に生まれた)公綱を左衛門権佐とし、次いで八月二七日には権中納言を辞して子左少弁長方に右衛門権佐を兼ねさせている。保元四年二月に補任された皇太后宮(忻子)権大夫の地位には変化はなく、仁安二年(一一六七)正月に従二位に叙せられたが、新たな官職を得ることなく、同年一〇月一八日に出家し、死亡した。
 以上のように、顕長は父顕隆がその基礎を整備した待賢門院-崇徳院流の枠組みの中で活動し、保元の乱後も、德大寺家との関係で、非後白河院派=二条天皇派であった。国司表の作成が三河国で一時停止したが、その作業に戻りたい。

 

藤原顕長について1

 顕長は顕隆晩年の子(一一一八年生)で、母は村上源氏大納言顕通の娘である。初めは頼教、次いで顕教とした後に顕長と改名している。保安四年(一一一二三)二月一六日に中宮(璋子)御給で叙爵(六才)した時点では「顕教」であった。「教」には異母兄顕頼ならびに藤原家政の妻となった娘が産んだ五才年長の雅教との関係がうかがわれるが、永久三年(一一一五)の家政の死後、娘は藤原俊忠に再嫁し、豪子ならびに俊子を産んでいる。豪子は德大寺公能(母は顕隆娘で、同母姉が頼長室となった幸子)との間に忻子(一一三四年生)、実定(一一三九年生)、多子(一一四〇年生)以下六名の子女を産んでいる。俊子は顕長との間に長方を産んでいるが、德大寺実定の室となった娘と雅教の子雅長の室となった娘も俊子の子である可能性が高い。顕隆には藤原清隆の室となり、次いで顕隆の異母弟朝隆に再嫁し、嫡子朝方を産んだ娘、さらには藤原忠隆の室となり崇德天皇の乳母となった栄子、顕隆の同母兄為隆の子憲方の室となった娘もおり、その間に嫡子頼憲、平教盛の嫡子通盛の室、德大寺実家(公能と俊忠の娘の子)室が生まれている。母が不明だが、三条公教の室となった娘も同母姉妹であろうか。公教の室として知られるのは憲方娘と清隆娘である。
 顕長は天治二年(一一二五)正月(八才)には本院(白河)分紀伊国の国守となったが、大治四年正月には父顕隆が五八才で死亡した。白河院没後の大治四年一二月二九日(一二才)に越中守に遷任、翌年三月に造中宮(聖子)御所賞で従五位上に叙せられ、一〇月に右兵衛佐を兼ねた。長承三年(一一三四)正月(一七才)に兵衛佐労で正五位下に叙せられ、二月には兵部大輔に補任された。その後、参河守(補任時一九才)、遠江守(同二八才)を経て久安五年(一一四九)四月に三二才で参河守に再任された。紀伊国は父顕隆の知行国で、越中国は兄顕頼の知行国であり、参河守以降は独立した国守であろう。久寿二年(一一五五)年一二月に参河守を辞して子長方を丹波守に申任じたが、これにより丹波国知行国主となった。

 

藤原顕能の子達2

 一一五七年一〇月には内裏造営に伴う勧賞が行われたが、重方は承香殿を造営した朝方(朝隆子)の譲りにより正五位下に叙せられた。一一五八年五月には三位に叙せら公卿となった親隆(朝隆同母弟)が中宮忻子のもとを訪れた際に権大進重方が取次を行っている。一一六一年四月の後白河院の東山御所御移徒の際には重方は皇后(忻子)宮権大進であるとともに、後白河院判官代であった。一一六七年一月二七日に女御滋子の役人が補任された際には右衛門権佐重方は職事に起用されている。その直後の三〇日の除目で重方は右少弁に補任された。四四才での起用は異例であるが、実務能力に長けていたのだろう。右大弁に補任されたのは時忠、左中弁は顕長の子長方であった。翌六八年九月には上西門院判官代であった重方の二男能頼が高倉天皇の蔵人に補任されている。能頼の異母(清隆娘)兄が重頼である。
 一一七〇年には四年前の兄基実の死により摂政・氏長者となった基房の子隆忠の元服に際して、権右中弁重方が家司に補任され、次いで一一七一年一二月に基房北政所の家司五名が補任された際にも重方が奉行を行っており、基房との関係がうかがわれる。一一七二年二月には藤原為親の死により重方が右中弁となり、一一七三年正月には上西門院嘉応元年未給により重方が正四位下に叙せられた。七三年六月に平時子が八条持仏堂の供養を行った際に、重方・重頼父子が参加していたのは前述の通りである。重方は一一七五年八月の関白基房政所下文には筆頭別当として署判を加え、重頼は忠通の娘育子(基房妹)の中宮少進となっていた。
 一一七九年三月に高倉天皇の娘で賀茂斎院となっていた範子の御所となっていた重頼宅が焼亡しているが、重方・重頼父子と高倉の母滋子の関係を背景としていた。範子は一時的に源有房妹(師行娘)である典侍宅(山槐記による。玉葉には有房宅とある)に渡御したが、有房の妻=通憲娘は範子の祖父成範の姉妹であった。重方は一一七九年一〇月九日には右大弁となり、翌年に五八才で出家している。
 顕能晩年の子と思われる顕方は多子の侍所別当や美福門院の別当を務める一方で、顕長の猶子となり、一一五七年一〇月の除目では顕長から兵部大輔を譲られている。以上のように、顕隆の子孫の間で緊密な関係が結ばれていた。また顕能の娘は藤原家政と顕隆の娘との間に生まれた雅教の妻となり、その間に生まれた雅長が顕隆の子顕長の娘を妻としている。

藤原顕能の子達1

 顕能は顕隆の子で、顕頼の同母弟であったが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡した。その長男であるのが頼佐で、康治元年には若狭守兼新院(崇徳)判官代であった。藤原保実(閑院流公実の弟)の孫公信の後任の若狭守となり、次いで康治二年には高階泰重と相博して阿波守に遷任したが、久安三年正月の除目で後任の藤原保綱(公信の孫)と交替し、一一五五年までは生存していたが、任官は確認できない。保綱の父実清が崇德院の側近であったことは前述の通りである。
 頼佐はその名から顕能の兄顕頼の庇護下に入り、崇德院との関係が深かった。頼佐の弟重方もまた顕頼の娘を妻としている。重方は没年時の年齢から一一二四年生であり、蔵人右近将監であった康治二年四月に叙爵している。頼佐は若狭守補任時(推定一一四〇年)には叙爵していたはずで、三才程度年上であったと思われる。重方は受領ではなく中央の官職を歴任するが、その一方で散位であった一一四八年八月には近衛天皇に入内した多子の政所別当となっている。多子は德大寺公能の娘で、頼長の養女となって入内した。公能の母は顕隆の娘で、公能の妻=多子の母は俊忠の娘であった。一一五〇年一二月の除目では宮内少輔に補任されている。一一五二年三月には前斎院=統子内親王御給で従五位上に叙せられている。この時、顕頼の子成頼(一一三六年生で、重方より一二才年下)は姫君(暲子内親王)御給で正五位下に叙せられている。
 一一五三年九月に従二位に叙せられた参議兼左近中将師長が前斎院統子のもとに慶賀に訪れた際には職事宮内少輔重方が取次をしているが、その一方で重方は鳥羽院判官代で、その際の同僚が平時信の子散位時忠であった。時忠の異母妹滋子は顕頼の娘祐子と時信との間に生まれ、後に統子=上西門院女房をへて、建春門院となった。
 一一五五年一〇月には公能の娘忻子が後白河天皇の女御として入内し、家司が補任されているが、その中には大舎人頭高階家行とともに前阿波守頼佐、宮内少輔重方がみえる。ともに待賢門院と崇徳院、統子内親王との関係を有していた。保元の乱後の一一五六年一〇月には忻子が中宮となり役人が補任されているが、その中には中宮亮顕長(顕隆子)、権亮実定(公能子)、大進頼憲(憲方子)とともに、権大進には重方と長方(顕長子)が、少進には為清(家行子)、権少進には惟頼(頼佐子、元勾当)がみえる。

2020年12月12日 (土)

三河守藤原隆能について

 久寿二(一一五五)年一二月二九日に三河守藤原顕長が三河守を辞して、子長方を丹波守に申し任じた。実際には長方はこれに先立ち九月一二日に丹波守に補任されている。丹波守成兼が死亡したため、長方の補任が先行し、その後顕長が三河守を辞した。問題は後任の藤原隆能はどのような人物であり、顕長の関係はどうかである。
 隆能は一一五四年に鳥羽金剛心院の扉絵を描いて正五位下に叙せられ、三河守に補任される前に主殿助から主殿頭(従五位下相当)に補任されていた。保元二年一〇月には内裏の造東廊賞を隆能から譲られた顕長が従四位下に叙せられている。隆能と顕長の間にはどのような関係があったのだろうか。隆能は藤原清隆と高階為行の娘との間に生まれたとされ、直接の関係はうかがわれない。
 成兼時代の丹波国は德大寺実能の知行国であり、それが顕長の知行国となり子長方が国守となった。相博する形で三河国が実能知行国となり、清隆の子隆能が三河守に補任された。五味文彦氏は九月一二日時点で三河国は実能知行国となったと解釈されている。清隆と実能との関係も問題となる。隆能は一一二七年に蔵人に補任されている。清隆と平忠盛との間に生まれた隆盛は二男とされるが、一一三〇年に13才で蔵人から叙爵しており、隆能は隆盛の異母兄であろう。
 顕長は顕隆と村上源氏顕房の娘との間に生まれているが、顕長誕生の24年前に顕房は死亡しており、顕長の母は顕房最晩年の子であろう。顕房流は兄俊房流が永久の変で輔仁親王とともに失脚すると村上源氏の中心となった。顕長は藤原俊忠の娘とともに異母兄顕頼の娘も妻としている。顕隆と俊忠が待賢門院-崇徳流の結節点であったことは前述の通りである。
 顕隆には実能の室と清隆の室となった娘がおり、後者は清隆の後に顕隆の異母弟朝隆の室になり、一一三五年に朝方を産んでいる。清隆は正室家子との間に光隆、定隆、頼季、清成、通成をなしたが末子通成は藤原経宗の養子となっている。経宗の室も清隆の娘であった。
 一一六五年に備前国は藤原邦綱の知行国となり、国守には隆盛が補任された。これは清隆の子隆盛ではなく、隆能の子隆成である。次いで一一七三年には邦綱知行の備前国の国守には清隆の子時房が補任された。邦綱の祖父盛綱の姉妹が清隆の母であり、邦綱の父盛国の姉妹が清隆の叔父隆重の室となっている。時房は待賢門院女房小丹波を母とし、待賢門院の甥公能の養子となっている。清隆の末子であろう。
 以上の様に、清隆と顕隆、德大寺実能との間の関係に基づき、その子達との間にも関係が結ばれた。清隆の子隆能が実能知行国三河の国守となるとともに、その造営賞を顕長に譲った。この関係の背後にも藤原顕隆がいた。

 

2020年12月11日 (金)

藤原家信の三河守補任

 院政期国司補任表は丹波から西へ進み周防まで完了し、愛知県史を参照して尾張を終え、三河を作成している。そのトップバッター藤原家信は康和元年(一〇九九)一一月二一日条(本朝世紀)で見任が確認できる。五味文彦氏作成の表では、承徳元年に藤原仲実の後任として補任されたことが記されているが、その時期については、仲実が備中守に遷任した後とのみ記されている。それをもう少し絞り込んでみたい。『愛知県史』をみても、関係史料は掲載されているが、その先の解釈はなされていない。それをするためには全国の状況をみなければならない。『愛知県史』関係者では松島周一氏が鎌倉時代の知行国の問題について、県史研究などを通じて、県史の国司表の修正を行っているが、院政期についてはそれがなされていない。当方も現段階では一一世紀後半から承久の乱あたりまでが作業の中心であるが、『国司一覧』の承久の乱から鎌倉末までについてもエクセルの表に落として(なお未完成で地域により精粗がある)、必要に応じて情報を追加(松島氏の論文、県史等)している。院政期と鎌倉後期の両方を守備範囲とする研究者は皆無なのが現状である。
 藤原仲実は一〇八二年から一〇八九年にかけて二期八年備中守を務め、源政長に交替している。間を置かず次の国に遷任するのは珍しく、一〇九四年一二月になって三河守に補任された。そうしたところ一〇九七年閏一月四日に備中守源政長が死亡したため、その後任として備中国に精通している仲実が急遽選ばれた。そして空席となった三河守に藤原家信が起用された。政長は白河院近臣となった有賢の父である。仲実は宇合流能成の子で両国以外に紀伊、越前守を歴任し、歌人として歌合わせにも参加している。頼通の子でありながら養子に出された子の一人である定綱の子が家信で、こちらも歌会に参加しているが、受領補任は三河のみのようである。家信にとってはチャンス到来であった。
 仲実の二度目の備中守見任が確認できるのは康和二年(一一〇〇)四月二八日であるが、補任時期との関係で問題となるのが、一〇九七年三月二六日に参河・周防匙文について協議されていることである(中右記、五味氏の表には未掲載)。「匙文」については今一つ意味が不明である(この時期の専門家には常識であろう)が、国司が交替した後に(のみではない)提出されていることが多い。一〇九六年一月の除目で淡路守と安房守が補任され、二月前半には両国から匙文が提出されている。一〇九七年正月には和泉守、周防守、伊賀守が補任され、三月に周防から、一二月には和泉・伊賀・周防から匙文が提出されている。一〇九八年六月には上野国から匙文が提出されているが、これは藤原邦宗から敦基に交代した(正確な時期は不明)ことに伴うものであろう。
 ということで、参河と周防の匙文が協議された三月二六日以前に、仲実は備中に遷任し、家信が三河守に補任されていた。正月三〇日の除目終了直後の閏一月四日に政長が死亡したための人事であった。

 

2020年12月 9日 (水)

一二月の近況2

 一二月八日は何事もなくスルーしてしまうというのがこの国の悲惨な現状か。朝日新聞には真珠湾攻撃に参加した人に取材した記事があったが。
 九日に明らかになった感染者数は572と五日の584に次ぐ数字である。二週間前の状況が反映されているとの仮説に従えば、三連休最終日である一一月二三日頃(九日の二日前の七日の検査とした場合)である。 三連休を前に明確な判断が示されなかったため、各地の人ではさほど減少しなかった。とりあえず前回と同じ作業をすると、三日前の六日の検査数は1428、七日は8853で、572÷(1428+8853)×2= 9.5パーセントと感染率はさらに上昇している。
 イギリスでは新型コロナワクチンの接種が始まったが、その有効性90%以上というのは極めてわかりにくい数字である。43500人超のボランティアが参加し、半数にワクチン、残りの半数に偽薬(ワクチン以外)を投与し、陽性者が94人となった時点で確認したところ、前者8に対して後者が86(整数で示しているため94人にはならない)という比率であったとのこと。ワクチンをうたない場合より一〇倍(86÷8)以上陽性にはなりにくいということである。今後のより大規模なデータに基づく分析がまたれる。それは副作用の比率をも含まなければならない。
 囲碁天元戦は二勝二敗となり最終局に決着が持ち越された。最初の二局は接戦であったが、ここ二局ははっきりした差が付くものであった。人間にもコンピュータにも正確な形勢判断ができないということか。とりあえず、国際戦に近い持ち時間3時間の棋戦で井山、一力いずれの力が上回るかであろう。二日制だとまた違うこともある。両者の持ち時間の残し方が勝敗を分けるかもしれない。
追記
 一〇日に602人となったので、同様の作業をすると、三日前の7日の検査数は9989(8853から増加しているのは追加の報告があったからか)、八日は8078。602÷(9989+8087)×2=6.7%。二日前のみの比較とすると、572÷8853=6.5%、602÷8087=7.4%となる。三日前と二日前の平均とすると感染率は低下したことになるが、二日前のみの検査数で割ると、感染率は上昇したことになる。検査日の二日後に明らかになるのが一般的だそうだが、データの扱いは難しい。六日の検査数があまりにも少ないのが原因である。その後の追加で2331となっているがやはりすくない。検査数は追加で変動するが、感染者はその日一日〆であり一旦発表されるとかわらない。1428に対する二日後の感染者は352。352÷1428=24.6%と大変高くなる(352が発表された時点では1428なので、2331は使わない)。
追記2
 一一日の東京都の感染確認者は595人で、九日の検査数は7546で、陽性率は7.8%である。九日6.5%、一〇日7.4%からさらに上昇しているが、この期に及んででも無能な首相(なんとかの一つ覚えと、はだかの‥‥がまさに当てはまる)は無言である。
追記3
 一二日は感染者数621、一〇日の検査数は7391で、陽性率8.4%とさらに上昇。

2020年12月 5日 (土)

一二月初めの近況

 近況を書くのも久しぶりだが、本日明らかになった東京都の感染者数が584と過去最高となったことによる。
 二ないし三日前に実施された検査の結果と思われるが、一一月二七日の570を上回った。これは二四日の検査数が10403件と過去最高であった結果である。二五日も8183件で二日間合計18586件。対して二日は7624件、三日は7749件で合計15373件である。ということは陽性率が高くなっている。機械的に出せば、前回が3.1%(検査日二日なので一日では6.2%)、今回が3.8%(7.6%)とかなり上がっていることが分かる。広報担当者失格の都知事は陽性者数が多くなった時だけいいわけのように検査数をいうが、毎回きちんと言えよということだ。韓国も増加傾向にはあるが、日本の5分の1程度である。人口では韓国は日本の約41%なので、日本の感染者数の多さがわかる。台湾は一一月三〇日の24が最多で、ほとんど一桁前半である。台湾の場合は気温の高さがあるかもしれないが、韓国は平均すれば日本と同程度の気温であろう。気になるのは日本より気温が低い北朝鮮であるが情報はない。中国は一一月初めに50弱の感染者数の日があったが、最近は20以下である。ただし、その精度にはやや問題があるかもしれない。
 以上のように、東アジアでは、実態不明の北朝鮮を除くと、日本がダントツで感染者数が多く、政府の無能さが如実に示されている。他より良いのでと内閣を支持する人が多いが、実際は他より遙かに悪いのである。政権トップがコロナについて理解していれば、具体的な指示が出せるが、日本は無理解な指導者二人が「全力を尽くす」と、「竹槍で米軍を倒す」ばりの愚かな発言を続けている。何度もいったように福島原発の事故の際に、自民党は解党し、一から健全な保守政党を作るべきであった。それが複数であっても問題はなかった。それがなされなかったため、自民党は先進国の与党としては比類無き無能集団となった。政権交代しても今よりよくなることは確実である。要は官僚に的確な指示ができる指導者が必要である。福島原発事故が前首相や現首相の時であったら日本は壊滅的打撃を受けたであろう。当時の菅直人首相は性格には問題があったようだが、弁理士の資格を有し、国会議員のなかでは原発の理解という点では五本の指に入ったであろう。一刻も早い政権交代が必要である。コロナで苦境に立たされている人のためにも。当面は危機管理の挙国一致内閣とし、とにかく無能な政治家を排除しなければならない。 

後白河院分国周防

 周防国が後白河院分国であることが確認できるのは安元三年正月二八日に藤原季能が国守に補任され、六月二八日に讃岐守に遷任するまでの五ヵ月のみであるが、季能の後任の周防守藤原能盛の在任時期を含めて実際にはもっと長かったことを述べた。
 今回とりあげるのは、承安二年二月二九日に前筑後守従五位下藤原朝臣季助が現在の防府天満宮に安置した金銅宝塔銘である。そこには、周防国が後白河院分国であった際に、目代として国務を奉行した縁で塔を安置したと述べている。季助が誰の目代であったかが問題となるが、仁安二年一月一九日に周防守の重任を認められている藤原季盛であろう。季盛は尊卑分脈等の系図にはみえないが、父俊盛が国主であった周防の国守であった。俊盛の嫡子季能が国守である讃岐は長寛元年正月二四日以来、俊盛の知行国であった。俊盛は美福門院のもとで国守を務め、その死後は娘八条院庁の別当であった。
 当時の政治は後白河院の子二条天皇が主導していたが、天皇は病気がちで、永万元年六月二五日には幼少の六条天皇に譲位し、翌月二八日には二三才で死亡した。そのため、後白河院がしだいに政治の主導権を回復していく。二条天皇を支えていたのは関白藤原基実とその室盛子の父である平清盛であった。ところが基実も天皇の死の一年後の永万二年七月二六日に二四才で死亡し、その後は名実ともに後白河院政が復活した。仁安二年正月一九日には後白河院が法住寺新御所に移徒しているが、これは前年に讃岐・周防両国主俊盛に造営を命じる院宣が出されていた。長寛元年以来の讃岐国に加えて、新たに周防国が俊盛の知行国とされ、俊盛の子季盛が国守とされた。
 仁安元年一〇月二一日に俊盛は大宮(多子)権大夫に起用されており、この時に季盛の任官とともに造営を命じる院宣が出されたと思われる。多子は近衛天皇の皇后であったが、忻子が後白河中宮となり、統子内親王が後白河准母として皇后となったことで大皇太后となり、次いで二条天皇の求めに応じて二度目の入内を行った。二条の死により大皇太后多子の存在は低下したが、後白河院は俊盛を自らの年預とするとともに、大宮権大夫という新たなポストを与えたのである。次いで御所造営が完成し、移徒が行われると、勧賞として周防守季盛を従五位上に叙した。この季盛の目代となったのが弟季助であった。系図には俊盛の嫡子季能の子に「季輔」がみえるが、これが季助の事で、其の後、筑後守に補任されるとともに、兄季能の養子となったのであろう。ただし、季盛は嘉応元年六月二三日(兵範記)が、季輔(助)も承安二年の金銅塔銘が終見で、その後の動向は不明である。
 以上、二条院と基実の死により主導権を回復した後白河院により仁安元年一〇月に周防国がその院分国とされ、そのもとで知行国主俊盛、国守季盛、目代季輔(助)という体制がとられたことが明らかとなった。季盛の前任者は応保二年正月二七日補任の源時盛であり、後任は仁安三年八月一二日補任の高階信章であり、ともに美福門院の娘八条院の関係者であった。ただし信章は不祥事により嘉応二年七月に叙籍・解官され、その跡には時盛の兄有房が起用されたと思われる。次いで治承元年正月に再び周防国は後白河院分国となり季能が遠江守から遷任してきた。

« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »

2021年5月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ