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2020年11月29日 (日)

藤原隆輔の周防守補任1

 ここのところ、院政期国司補任表の作業に重点を置いているため、ブログの記事の更新をしていないが、標題の問題について確認したい。
 隆輔は美福門院の兄長輔の子で同母(清隆娘)弟実清、長明とともに美福門院分国の国守に補任されている。隆輔は一一二九年の生まれで一四才で叙爵し、左兵衛権佐、中務大輔と中央の官職を歴任した後に女院分国周防の国守に補任されている。問題はその時期について、保元二年(五月二一日)と保元三年(同)の二説があることである。公卿補任承安三年条(国会デジタル本)では両方を記している。『大日本史料』建久五年五月一九日条には、非参議従三位藤季隆(養和元年に隆輔から改名)の死亡記事に続いて「公卿補任」を引用しているが、そこには保元三年の周防守補任のみ記されている。『山口県史』史料編古代では、公卿補任承安三年条を引用して、保元三年の補任について「イナシ」として写本によってはみえないとした上で保元二年説を採用している。一方、美福門院分国を明らかにした五味文彦氏『院政期社会の研究』では保元三年説が採用されている。
 この問題を考えるヒントとなるのは、隆輔が保元二年一〇月二二日に同母弟周防守長明が大内裏を造営した功により従四位上に叙されていることである。大内裏造営は後白河天皇のもとで実権を握った信西入道が主導し、保元二年二月一八日に始まり、一〇月八日に完成し、それに伴い一〇月二二日に大々的な勧賞が行われた。保元二年説を取ると、その最中に周防守が長明から隆輔に交替したことになる。それだから長明の功を隆輔に適用したとの解釈もあろうが、それなら隆輔の功と書くであろう。八ヵ月の造営期間の前半三ヵ月が長明、五ヵ月が隆輔の在任となるので。
 以上のように論理的には保元三年説が正しいが、保元二年五月二一日と保元三年五月二一日前後の除目関係記事を『兵範記』と『公卿補任』で確認する。二年五月一八日には臨時除目が行われ、陸奥守藤原隆親が内蔵権頭に転じ、叔父信説が陸奥守に補任されている。藤原忠隆の嫡子は「夜の関白」藤原顕隆の娘を母とする隆教であったが、近衛天皇の即位と前後して待賢門院関係者が不当な配流処分が二件なされたことに抗議したことで停任となり、処分解除後間もなく死亡した。その隆教と平忠盛(抗議活動にはその嫡子家盛も参加)の娘との間に生まれたのが隆親であった。後には国主松殿基房のもとで播磨守もつとめている。

 

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