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2020年11月16日 (月)

雅仁親王と宗尊親王

 『黄葉記』宝治二年一二月二五日条に、この日行われた後嵯峨天皇第一皇子宗尊親王の御読書始の様子が描かれている。宗尊は父が青天の霹靂で天皇に即位した仁治二年(一二四二)の一一月二二日に誕生している。まさに母(平棟基の娘棟子)の胎内にいた間に歴史が変わったのである。後嵯峨のもとには西園寺実氏の娘姞子が女御として入内し、二ヶ月後には中宮となり、寛元四年(一二四六)にその子後深草が即位すると院号宣下をうけて大宮院となっている。
 宗尊には有力な後見がなかったが、父の寵愛を受け、久仁(後深草)誕生後にもかかわらず三才で親王宣下を受け。最も佳例とされる七才となった一二月に御読書始が行われた。この前後に宗尊は式乾門院(後高倉院娘)とその姪室町院(後堀河天皇娘)の猶子となっており、その経済的基盤も確保されたが、急転直下、幕府将軍となったことで、結果的には所領相続はご破算となった。
 二五日に行われたのは保延三年一二月二五日に行われた鳥羽院第四皇子雅仁(後白河)の例に倣ったものである。雅仁はすでに一二才となっていたが、顕仁(崇德)との間にいた二人の同母兄はいずれも障害を持っており、一九才の崇德にもまだ皇子が誕生していないため、皇位継承の可能性を残していた。ただし、保延五年には鳥羽の寵愛を受けた得子が体仁を産み、翌年には崇德にも重仁が誕生したことで、雅仁の皇位継承の可能性はほとんどなくなった。
 雅仁は皇位継承者としての教育を受けていないとされるが、体仁誕生までは受けていたのである。御読書始については『中右記』同日条に記載があるが、その概略に留まっており、『黄葉記』の記述は貴重な情報を提供してくれる。儀式後の一献は武蔵守藤原信輔、二献勧盃は宰相中将藤原忠基(中宮大夫忠教の子)、三献勧盃は宮勅別当権中納言顕頼が務めている。さらには殿上侍臣として少将藤原公通(通季の子)、左少将藤原忠兼(忠基の同母弟)、右少将源資賢(有賢の子)と、雅仁の母待賢門院並びに崇德天皇と関係の深い人物の名が並んでいる。
 『中右記』の記主宗忠は当時七四才で右大臣であったが、嫡子宗能(中宮権大夫、五四才)が直前の一六日に左兵衛督から右衛門督に昇進し、検非違使別当を兼ねたことと、同母弟宗成(五三才)が右大弁(前年一一月には参議に補任され公卿となる)の座にあることを希代の例として我が身の面目だと述べている。
 以上の点から雅仁がしっかりと帝王学を学ぶ機会がなかったとの説は誤りであることがわかる。ただし、異母弟体仁と甥(崇徳の子)重仁の誕生により、天皇即位の途は一旦は閉ざされたかにみえた。後白河の子守仁(二条)が誕生したのはまさにそのような時であり、その時点では天皇となる可能性はゼロであった。最近は「院政期国司補任表」の作業を中心に行っており、ブログの記事は注目すべき史料に出逢った場合に限定される。その作業のため、とりあえず、『中右記』『兵範記』『山槐記』『玉葉』の索引を入手(ないしは注文中)した。この作業がなければ、『黄葉記』(大日本史料所収)の記述に出逢うことはなかった。

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コメント

初めまして。福井県在住の岩田と申します。
「資料の声」を拝見しております。

2016年5月掲載の得屋氏の記事に興味があり、投稿させていただきました。
家系図を辿る中で、当ブログに出会ったのですが、山陰の事について寡聞にして存じない事ばかりなので、お聞きしたいことが長文となりそうです。
唐突な事、不躾ではありますが、上記アドレスまでご連絡いただければ詳細お伝えできるかと思います。足労お掛け致しますが、ご助力頂ければ幸いかと存じます。

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