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2020年11月 2日 (月)

仁平三年四月六日の除目3

 翌仁平四年九月一二日夕方に小除目が行われた。左兵衛督忠雅が主担当で参議西園寺公通と左少弁平範家により行われた。駿河守と筑前守に欠員が生じたための補充人事であった。筑前守は藤原清隆の子清成が死亡したため、同じく清隆の子である頼季が後任となった。駿河守も忠弘(広)が死亡したことに伴うものであろう。藤原俊教が起用された。俊教は雅教と藤原顕能(顕頼の同母弟)の娘との間に生まれている。康治二年正月の除目で皇后宮(得子)御給で叙爵し、仁平二年正月には美福門院御給で従五位上に叙せられている。同母兄弟である雅長が叙爵したのは久安四年正月五日(この日に除目が行われたことは本朝世紀により確認できる。尊卑分脈だと仁平二年二月八日だが、この日には除目は行われているが、叙位は従四位下藤原隆長以外は不明)であり、俊教は同母兄となる。保元二年一〇月二二日には内裏西廊造営賞を俊教から譲られて雅長が従五位上に叙せられている。その後俊教の動向は不明であり、間もなく死亡した可能性が高い。
 弟雅長は保元三年一二月には八月に即位した新帝二条に昇殿を認められ、四年四月一六日には中宮姝子の初入内賞で正五位下に叙せられている。平治元年八月一四日に駿河守を兼ねたのが、兄の死亡によるものであろうか。雅長は永暦元年七月には不仕により一旦除籍されたが、応保三年正月には父雅卿が中納言を辞したことで左近衛権少将に補任され、三月一五日には二条天皇への昇殿を再度認められている。長寛二年正月には高松院(姝子)御給で従四位下に叙せられており、姝子(上西門院養女でもあった)は後白河院派ではなく二条天皇派に属していた。永万元年六月二五日には新帝六条に昇殿を認められ、七月二五日には高松院御給で従四位上に叙せられた。
 その後、二条院と藤原基実が相次いで没したことで、後白河院と滋子との間に生まれた高倉天皇が即位したが、雅長は嘉応元年九月には天皇から昇殿を認められた。二条天皇派の中心であった藤原経宗(その室は清隆の娘)と同様、後白河院政下でも生き残った。治承三年正月には従三位に叙せられて公卿となり、元暦二年正月には参議に補任された。

 

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