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2020年11月 8日 (日)

藤原資頼について

 丹後守、伊予守、越中守、備中守、土左守、讃岐守と数多くの国守を歴任した資頼について確認する。
 資頼は石見国で浄土宗の布教を行った円尊の兄弟で、その父は頼定である。頼定の父経定は経宗の一九才年上の異母兄であるが、経宗が待賢門同母姉公子を母としたこともあり、嫡子とはなれず出世も遅れた。頼定は後白河院の反撃により経宗が解官・配流された際に連座しており、三〇才年上の叔父経宗の影響下(猶子)にあった。
資頼は頼定の嫡子頼房の二八才年上の兄(異母であろう)で、長寛元年(一一六三)正月二四日に叙爵と同時に丹後守に補任されている(公卿補任)。「丹波」とする写本もあるが、丹後が正しい。美濃国住人藤原清兼の子実清は、美濃国の所領を頼定卿に寄進してその家人となった。五才年上の妻は内府(人物不明)母儀乳母六条であり名誉も得ていたが、嫡子頼房が幼少であるのにつけこみ、庶兄資頼が実清領を押領しようとした。これに対して実清は入道納言(人物不明)の権勢に付くことで、押領を防いだとする(以上、『明月記』天福一年(一二三三)五月二九日条)。
 話を戻すと、資頼は永万元年(一一六五)六月二四日に丹後守から伊予守に遷任したが(『顕広王記』同日条には「国替、丹後・伊予」とある)、次いで七月二八日には越中守に遷任した。このような人事は希であろうが、資頼が父頼定が猶子となっていた経宗の知行国の国守であったゆえの人事であった。伊予と越中の相博は経宗知行国内の相博であった。その支配はともに経宗の家臣が行っていたと思われる。越中守であった藤原定隆は幼少時は父清隆の知行国の国守で、成人後は独立した国守であったが、応保二年(一一六二)四月に清隆が死亡した後は姉である女御琮子母、次いで経宗の知行国の国守を務めている。経宗の妻は定隆の姉妹(同母かは不明)であった。同様の例に、藤原季能は幼少時に父俊盛の知行国の国守を務めていたが、後白河院政下では院分国の国守を務めている。国守の年齢と知行国主の有無は無関係になってきた。
 資頼は越中守在任一年余の仁安元年(一一六六)一〇月に備中守に遷任し、承安元年(一一七一)四月に土佐守に遷任した。土佐守は治承二年(一一七八)暮れまでの八年弱在任した。いずれも経宗の知行国である。土佐国はその後も経宗の知行国で藤原宗美、藤原成定が国守を務めたが、寿永二年までに資頼が復帰し、経宗の死後は嫡子頼実が知行国主となった。建久二年(一一九一)二月に二年の延任が認められており、結果的には建久五年正月に得替した。その後、建仁三年(一二〇三)四月に信濃守に補任されたが、二年後の元久二年(一二〇五)正月には後任の信濃守として藤原家時がみえ、前年の内には交替したと思われる。その後、元久元年三月には皇太后(後白河天皇中宮忻子)宮権大夫となり、宜秋門院(後鳥羽天皇中宮)御給で従四位上、中宮(大炊御門頼実の娘)御給で正四位下となり、承元四年(一二一〇)正月に臨時給で非参議従三位に叙せられ公卿となり、建保元年(一二一三)一一月四日に六六才で死亡した。
付記:次の訂正記事に基づき一部内容を修正した。

 

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