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2020年11月 7日 (土)

一条能保と坊門姫の結婚

 能保は父通重が死亡した時点で三才であり、母方の祖父德大寺公能の庇護下に入ったと思われる。一一才であった一一五七年一二月には公能の知行国丹波の国守に起用された。ところが、同年九月には公能の父実能が死亡し、四年後の八月には公能も死亡した。このあたりから德大寺家の政治的地位は低下していく。公能の娘忻子が後白河天皇中宮、次いで皇太后となったが、両者の間には子もなく、名ばかりのものであった。一一五八年一〇月に丹波国は三条実行の知行国となり、これに替わる公能の知行国はなかった。公能の子実守が国守であった美作は嫡子実定が継承したが、それも一一六三年一二月には清盛の知行国となり、子宗盛が国守に補任された。これにより德大寺家の知行国は無くなった。
 能保は一一六七年一二月に公能の娘大皇太后多子のもとでの大宮権亮に補任されるまで、九年間散位であった。この不遇期に隆暁の養子となったと考えられ、僧侶になることも選択の一つとなったと思われる。能保と坊門姫の最初の子で九条兼実の子良経の室となった女性が一一六七年生まれというのはこの点からも早すぎる。大宮権亮となったことで、俗世界への復帰となった。翌一一六八年正月には上西門院当年給で従五位上に叙せられている。この時点では能保の叔父基家が女院別当の中心となり子基宗が女院分国加賀の国守であった。一一七三年一二月には最勝光院供養日行幸賞として上西門院給で正五位下に進んだ。とりあえずの職と叙位であり、それが変わるのは一一八三年秋に鎌倉に赴いて頼朝と接触してからであった。良経室となった娘を除けば、坊門姫の子としては一一七六年に嫡子高能が誕生している。能保と坊門姫の結婚は一一七〇年代はじめであろう。
 坊門姫は結婚時には祖母の実家藤原光隆の庇護下にあったと思われる。光隆と能保のつながりを調べると、父清隆と待賢門院女房小因幡との間に生まれた時房が公能の養子となっている。系図には本名定能とあるが、これば養子となった際の名前であろう。ただし公能の死後、時房に改名したと思われる。その子の名は清時であり、実父清隆との関係をうかがわせる。次いで光隆の子で歌人として知られる家隆の母が待賢門院の異母兄実兼であることが注目される。実兼は公卿にはなれず、その子成兼は実兼の甥(成兼の従兄弟)三条公教の養子となり、一一四九年には德大寺実能の知行国丹波の国守となっている。公教の嫡子実房の母は清隆の娘である。能保と坊門姫をつなげたのは德大寺家であり、それを支援したのが待賢門院の娘上西門院であった。
 最後に能保の叔父基家の経歴をみると、一一六七年正月には上西門院御給で正四位下、一一七二年正月に従三位に叙せられ、公卿となり、一一七六年三月には上西門院御給で正三位に叙せられている。基家は上西門院因幡とともに平頼盛の娘も室とし、前者との間に一一五五年に嫡子基宗が、後者との間に一一六七年に保家が生まれている。一一六一年九月に滋子の子憲仁の立太子を画策したとして平時忠、教盛とともに解官されているが、頼盛は含まれておらず、滋子との関係が原因であったと思われる。基家の嫡子基宗は一一六六年一二月に上西門院去年大嘗会御給で従五位上に、一一七二年正月に正五位下に叙せられている。女院の叙位推薦枠が基家-基宗父子とともに能保に使われていることがわかるが、前者が優先度が高かった。

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