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2020年11月 5日 (木)

叡子内親王の誕生

 鳥羽院と美福門院の第一子として保延元年一二月四日に誕生したのが叡子内親王であるが、生まれるとすぐに鳥羽院皇后泰子の養女となり、院号宣下後は高陽院内親王と呼ばれた。そのもとには肥後国鹿子木庄が寄進されたことでも知られる。得子所生の内親王の将来を考えての措置であったが、久安四年一二月八日に一四才で死亡した。
 長承三年(一一三四)八月の時点で得子の関係者=長実の子達が処罰を受けていたが、伯耆守時通と備後守長親はその後復活した。時通は藤原宗通の養子となることで元永三年(一一二〇)に初任の受領=因幡守となり、次いで宗通が死亡すると因幡国は実父長実の知行国となった。長親も保安三年(一一二二)に宗通の子重通に代わって備中守になったのが受領初任であった。五味文彦氏は時通と長親が処罰から復活した時点で両国は知行国主が美福門院(得子)にうつったとされたが、三〇才前後とみられる両者の年齢(年齢の長幼は不明だが、嫡子顕盛は一一〇〇~一一三四)からすれば、父長実の死後は独立した国守となっていたと思われる。
 得子が鳥羽院の寵愛を受ける段階から第一子誕生という段階となったため、鳥羽院の意向で両人は国守を解任されたのではないか。備後国は顕盛の子で一七才の俊盛(二年前に叙爵)が後任となったが、半年で藤原為忠跡の丹後守に遷任している。伯耆国は一三才の藤原光頼が国守となり、父顕頼が知行国主であったことは確実である。問題は俊盛を支援したのは誰かである。母方の祖父敦兼は保延四年に出家するまでは可能であり、その子季兼(生年不明だが同母兄)、季行(一一一四年生)もいるが、内親王誕生の前後に組織されたであろう得子(未だ女御でもないが)の分国とされ、その家司によって経営されたと思われる。
 俊盛の父顕盛も死亡するまで五年以上にわたって尾張守をつとめており、その関係者の支援も考えられるが、恨み骨髄の顕盛の死亡した(一月二六日)その年に子俊盛が叙爵(一月五日)しているのは偶然ではなかろう。ただし、叙爵は恂子(後の統子)内親王給であり、父顕盛、母方の祖父敦兼が白河院-待賢門院の近臣であったことを背景としているが、二年後の備後守起用は得子の甥としてのもので、俊盛の政治的立場が大きく変えられたことがわかる。
 俊盛がわずか半年後に丹後守に遷任した跡に備後守に補任されたのは為忠の子為経(盛忠から改名)である。この点は五味文彦氏『院政期社会の研究』に収録されなかった氏作成の「院政期受領表」で指摘されており、関係史料をみても妥当である。為経は保延四年正月の除目で長門守に遷任している。為経はその後出家して寂超と名乗り歌人として活躍するが、為経と美福門院加賀との間に生まれた隆信が美福門院分国の国守を歴任している。為忠の子達については井上宗雄氏「常磐三寂年譜考」(『国文学研究 21』早稲田大学国文学会、1960年)や鈴木佐内氏「藤原為忠の事歴とその子常磐の三寂の出家をめぐって」(智山学報第37号、1988)で詳細な検討がなされているが、為経を俊盛の前任の備後守と考えている。国文学研究者は実証的で詳細な検討をされるが、当該期の国司の動向は断片的資料を政治史の中で位置づけないと判明せず、国文学にも精通した中世史家五味氏の面目躍如であろう。『国司一覧』をみても「備後守為経」関係史料への言及はない。

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