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2020年11月

2020年11月29日 (日)

藤原隆輔の周防守補任2

 早世した隆教に替わって嫡子となったのが、顕隆の嫡子顕頼の娘を母とする信頼であった。とくに保元の乱後は、後白河天皇の寵臣として、急速に昇進している。隆親の後任信説は信頼の同母弟であり、今回の人事は信頼関係者の小規模なものであった。『兵範記』『公卿補任』に二一日の記事はなく、この日に除目が行われた可能性は低い。保元三年五月六日には臨時除目が行われ、隆輔が「行幸鳥羽賞」で正四位下に叙せられ、信頼も「陸奥造営賞」で従三位となっている。四月二六日から五月三日にかけて後白河天皇が鳥羽殿に行幸した事に伴う除目であった。従三位に叙せられた藤原親隆(『兵範記』の記主平信範と同様に摂関家家司であった)は同日夜に子為親、為綱以下の関係者を引き連れて慶賀のために関係先を訪問している。二一日の除目については『兵範記』にはみられないが、『公卿補任』には、中納言兼左衛門督花山院忠雅が弟中山忠親を右少将から左中将に昇進させるために左衛門督を辞任したことにともなう除目が行われている。これに伴い権中納言源雅通が右衛門督から左衛門督に転じ、権中納言兼左兵衛督藤原光頼が右衛門督に転じ、空席となった左兵衛督には参議藤原信頼が起用された。これも信頼を昇進させるための玉突き人事であろう。そうした中で、周防守が家明から同母兄で中務大輔であった隆輔への交替がなされたのであろう。
 『大日本史料』分には隆輔が中務大輔を止められた記事はないが、公卿補任承安三条には保元二年五月二一日の周防守補任に続いて「止大輔」とある。隆輔の経歴を記した公卿補任には混乱が見られ、三年五月二一日に隆輔と家明の間で周防守と中務大輔の相博がなされたと思われる。中務大輔家明の所見は『山槐記』応保元年一二月二一日条である。本来、中務大輔は正五位下相当であるのに対して家明は保元二年次には最高でも従五位上であったと思われるが、美福門院(一一六〇年一一月没、月は旧暦)と母方の祖父清隆(一一六二年四月没)が健在であった時点の家明なら中務大輔補任は十分ありうる。兄隆輔と実清は叙爵時には蔵人で、美福門院の寵臣となった実清がその二年後に一五才で女院分国越前の国守となったのに対して末弟家明は叙爵と同時に周防守に補任されるという特別扱を受けている。ただし、美福門院の死後、その分国の国守となった人物は同じ兄弟であっても明暗が分かれている。
 『山口県史』の担当者がなぜ保元二年説を採用したかは不明であるが、五味氏の研究もあり、スタッフに院政期の専門家がいれば、これまで述べた検討は可能であったろう。

 

藤原隆輔の周防守補任1

 ここのところ、院政期国司補任表の作業に重点を置いているため、ブログの記事の更新をしていないが、標題の問題について確認したい。
 隆輔は美福門院の兄長輔の子で同母(清隆娘)弟実清、長明とともに美福門院分国の国守に補任されている。隆輔は一一二九年の生まれで一四才で叙爵し、左兵衛権佐、中務大輔と中央の官職を歴任した後に女院分国周防の国守に補任されている。問題はその時期について、保元二年(五月二一日)と保元三年(同)の二説があることである。公卿補任承安三年条(国会デジタル本)では両方を記している。『大日本史料』建久五年五月一九日条には、非参議従三位藤季隆(養和元年に隆輔から改名)の死亡記事に続いて「公卿補任」を引用しているが、そこには保元三年の周防守補任のみ記されている。『山口県史』史料編古代では、公卿補任承安三年条を引用して、保元三年の補任について「イナシ」として写本によってはみえないとした上で保元二年説を採用している。一方、美福門院分国を明らかにした五味文彦氏『院政期社会の研究』では保元三年説が採用されている。
 この問題を考えるヒントとなるのは、隆輔が保元二年一〇月二二日に同母弟周防守長明が大内裏を造営した功により従四位上に叙されていることである。大内裏造営は後白河天皇のもとで実権を握った信西入道が主導し、保元二年二月一八日に始まり、一〇月八日に完成し、それに伴い一〇月二二日に大々的な勧賞が行われた。保元二年説を取ると、その最中に周防守が長明から隆輔に交替したことになる。それだから長明の功を隆輔に適用したとの解釈もあろうが、それなら隆輔の功と書くであろう。八ヵ月の造営期間の前半三ヵ月が長明、五ヵ月が隆輔の在任となるので。
 以上のように論理的には保元三年説が正しいが、保元二年五月二一日と保元三年五月二一日前後の除目関係記事を『兵範記』と『公卿補任』で確認する。二年五月一八日には臨時除目が行われ、陸奥守藤原隆親が内蔵権頭に転じ、叔父信説が陸奥守に補任されている。藤原忠隆の嫡子は「夜の関白」藤原顕隆の娘を母とする隆教であったが、近衛天皇の即位と前後して待賢門院関係者が不当な配流処分が二件なされたことに抗議したことで停任となり、処分解除後間もなく死亡した。その隆教と平忠盛(抗議活動にはその嫡子家盛も参加)の娘との間に生まれたのが隆親であった。後には国主松殿基房のもとで播磨守もつとめている。

 

2020年11月16日 (月)

雅仁親王と宗尊親王

 『黄葉記』宝治二年一二月二五日条に、この日行われた後嵯峨天皇第一皇子宗尊親王の御読書始の様子が描かれている。宗尊は父が青天の霹靂で天皇に即位した仁治二年(一二四二)の一一月二二日に誕生している。まさに母(平棟基の娘棟子)の胎内にいた間に歴史が変わったのである。後嵯峨のもとには西園寺実氏の娘姞子が女御として入内し、二ヶ月後には中宮となり、寛元四年(一二四六)にその子後深草が即位すると院号宣下をうけて大宮院となっている。
 宗尊には有力な後見がなかったが、父の寵愛を受け、久仁(後深草)誕生後にもかかわらず三才で親王宣下を受け。最も佳例とされる七才となった一二月に御読書始が行われた。この前後に宗尊は式乾門院(後高倉院娘)とその姪室町院(後堀河天皇娘)の猶子となっており、その経済的基盤も確保されたが、急転直下、幕府将軍となったことで、結果的には所領相続はご破算となった。
 二五日に行われたのは保延三年一二月二五日に行われた鳥羽院第四皇子雅仁(後白河)の例に倣ったものである。雅仁はすでに一二才となっていたが、顕仁(崇德)との間にいた二人の同母兄はいずれも障害を持っており、一九才の崇德にもまだ皇子が誕生していないため、皇位継承の可能性を残していた。ただし、保延五年には鳥羽の寵愛を受けた得子が体仁を産み、翌年には崇德にも重仁が誕生したことで、雅仁の皇位継承の可能性はほとんどなくなった。
 雅仁は皇位継承者としての教育を受けていないとされるが、体仁誕生までは受けていたのである。御読書始については『中右記』同日条に記載があるが、その概略に留まっており、『黄葉記』の記述は貴重な情報を提供してくれる。儀式後の一献は武蔵守藤原信輔、二献勧盃は宰相中将藤原忠基(中宮大夫忠教の子)、三献勧盃は宮勅別当権中納言顕頼が務めている。さらには殿上侍臣として少将藤原公通(通季の子)、左少将藤原忠兼(忠基の同母弟)、右少将源資賢(有賢の子)と、雅仁の母待賢門院並びに崇德天皇と関係の深い人物の名が並んでいる。
 『中右記』の記主宗忠は当時七四才で右大臣であったが、嫡子宗能(中宮権大夫、五四才)が直前の一六日に左兵衛督から右衛門督に昇進し、検非違使別当を兼ねたことと、同母弟宗成(五三才)が右大弁(前年一一月には参議に補任され公卿となる)の座にあることを希代の例として我が身の面目だと述べている。
 以上の点から雅仁がしっかりと帝王学を学ぶ機会がなかったとの説は誤りであることがわかる。ただし、異母弟体仁と甥(崇徳の子)重仁の誕生により、天皇即位の途は一旦は閉ざされたかにみえた。後白河の子守仁(二条)が誕生したのはまさにそのような時であり、その時点では天皇となる可能性はゼロであった。最近は「院政期国司補任表」の作業を中心に行っており、ブログの記事は注目すべき史料に出逢った場合に限定される。その作業のため、とりあえず、『中右記』『兵範記』『山槐記』『玉葉』の索引を入手(ないしは注文中)した。この作業がなければ、『黄葉記』(大日本史料所収)の記述に出逢うことはなかった。

2020年11月11日 (水)

藤原資頼訂正

 またもや舌の根が乾かない内の訂正となったが、伊予国弓削島庄関係史料に伊予国目代安倍資良奉書があるが、東寺百合文書WEBで再確認すると、「四」月二二日付ではなく、「八」月二二日付けであった。国会図書館蔵の写本(白河本)では「安倍資良」が「勘解由次官」と、月も「四月」と記されているが共に写す際の誤りであった。八月二二日ならば六月二四日の国替後であり、右大臣とは藤原経宗である。
 以上の点を踏まえると、六月二四日の国替とは、平清盛の知行国であった伊予国が経宗の知行国となり、経宗の知行国であった丹後国が清盛の子重盛の知行国となったことであり、「丹波」の誤りとしたのを訂正する。公卿補任資頼の項の「丹波」(丹後とする写本もあるが、『大日本史料』は丹波を採用)は「丹後」が正解であった。

2020年11月 8日 (日)

藤原資頼について

 丹後守、伊予守、越中守、備中守、土左守、讃岐守と数多くの国守を歴任した資頼について確認する。
 資頼は石見国で浄土宗の布教を行った円尊の兄弟で、その父は頼定である。頼定の父経定は経宗の一九才年上の異母兄であるが、経宗が待賢門同母姉公子を母としたこともあり、嫡子とはなれず出世も遅れた。頼定は後白河院の反撃により経宗が解官・配流された際に連座しており、三〇才年上の叔父経宗の影響下(猶子)にあった。
資頼は頼定の嫡子頼房の二八才年上の兄(異母であろう)で、長寛元年(一一六三)正月二四日に叙爵と同時に丹後守に補任されている(公卿補任)。「丹波」とする写本もあるが、丹後が正しい。美濃国住人藤原清兼の子実清は、美濃国の所領を頼定卿に寄進してその家人となった。五才年上の妻は内府(人物不明)母儀乳母六条であり名誉も得ていたが、嫡子頼房が幼少であるのにつけこみ、庶兄資頼が実清領を押領しようとした。これに対して実清は入道納言(人物不明)の権勢に付くことで、押領を防いだとする(以上、『明月記』天福一年(一二三三)五月二九日条)。
 話を戻すと、資頼は永万元年(一一六五)六月二四日に丹後守から伊予守に遷任したが(『顕広王記』同日条には「国替、丹後・伊予」とある)、次いで七月二八日には越中守に遷任した。このような人事は希であろうが、資頼が父頼定が猶子となっていた経宗の知行国の国守であったゆえの人事であった。伊予と越中の相博は経宗知行国内の相博であった。その支配はともに経宗の家臣が行っていたと思われる。越中守であった藤原定隆は幼少時は父清隆の知行国の国守で、成人後は独立した国守であったが、応保二年(一一六二)四月に清隆が死亡した後は姉である女御琮子母、次いで経宗の知行国の国守を務めている。経宗の妻は定隆の姉妹(同母かは不明)であった。同様の例に、藤原季能は幼少時に父俊盛の知行国の国守を務めていたが、後白河院政下では院分国の国守を務めている。国守の年齢と知行国主の有無は無関係になってきた。
 資頼は越中守在任一年余の仁安元年(一一六六)一〇月に備中守に遷任し、承安元年(一一七一)四月に土佐守に遷任した。土佐守は治承二年(一一七八)暮れまでの八年弱在任した。いずれも経宗の知行国である。土佐国はその後も経宗の知行国で藤原宗美、藤原成定が国守を務めたが、寿永二年までに資頼が復帰し、経宗の死後は嫡子頼実が知行国主となった。建久二年(一一九一)二月に二年の延任が認められており、結果的には建久五年正月に得替した。その後、建仁三年(一二〇三)四月に信濃守に補任されたが、二年後の元久二年(一二〇五)正月には後任の信濃守として藤原家時がみえ、前年の内には交替したと思われる。その後、元久元年三月には皇太后(後白河天皇中宮忻子)宮権大夫となり、宜秋門院(後鳥羽天皇中宮)御給で従四位上、中宮(大炊御門頼実の娘)御給で正四位下となり、承元四年(一二一〇)正月に臨時給で非参議従三位に叙せられ公卿となり、建保元年(一二一三)一一月四日に六六才で死亡した。
付記:次の訂正記事に基づき一部内容を修正した。

 

2020年11月 7日 (土)

一条能保と坊門姫の結婚

 能保は父通重が死亡した時点で三才であり、母方の祖父德大寺公能の庇護下に入ったと思われる。一一才であった一一五七年一二月には公能の知行国丹波の国守に起用された。ところが、同年九月には公能の父実能が死亡し、四年後の八月には公能も死亡した。このあたりから德大寺家の政治的地位は低下していく。公能の娘忻子が後白河天皇中宮、次いで皇太后となったが、両者の間には子もなく、名ばかりのものであった。一一五八年一〇月に丹波国は三条実行の知行国となり、これに替わる公能の知行国はなかった。公能の子実守が国守であった美作は嫡子実定が継承したが、それも一一六三年一二月には清盛の知行国となり、子宗盛が国守に補任された。これにより德大寺家の知行国は無くなった。
 能保は一一六七年一二月に公能の娘大皇太后多子のもとでの大宮権亮に補任されるまで、九年間散位であった。この不遇期に隆暁の養子となったと考えられ、僧侶になることも選択の一つとなったと思われる。能保と坊門姫の最初の子で九条兼実の子良経の室となった女性が一一六七年生まれというのはこの点からも早すぎる。大宮権亮となったことで、俗世界への復帰となった。翌一一六八年正月には上西門院当年給で従五位上に叙せられている。この時点では能保の叔父基家が女院別当の中心となり子基宗が女院分国加賀の国守であった。一一七三年一二月には最勝光院供養日行幸賞として上西門院給で正五位下に進んだ。とりあえずの職と叙位であり、それが変わるのは一一八三年秋に鎌倉に赴いて頼朝と接触してからであった。良経室となった娘を除けば、坊門姫の子としては一一七六年に嫡子高能が誕生している。能保と坊門姫の結婚は一一七〇年代はじめであろう。
 坊門姫は結婚時には祖母の実家藤原光隆の庇護下にあったと思われる。光隆と能保のつながりを調べると、父清隆と待賢門院女房小因幡との間に生まれた時房が公能の養子となっている。系図には本名定能とあるが、これば養子となった際の名前であろう。ただし公能の死後、時房に改名したと思われる。その子の名は清時であり、実父清隆との関係をうかがわせる。次いで光隆の子で歌人として知られる家隆の母が待賢門院の異母兄実兼であることが注目される。実兼は公卿にはなれず、その子成兼は実兼の甥(成兼の従兄弟)三条公教の養子となり、一一四九年には德大寺実能の知行国丹波の国守となっている。公教の嫡子実房の母は清隆の娘である。能保と坊門姫をつなげたのは德大寺家であり、それを支援したのが待賢門院の娘上西門院であった。
 最後に能保の叔父基家の経歴をみると、一一六七年正月には上西門院御給で正四位下、一一七二年正月に従三位に叙せられ、公卿となり、一一七六年三月には上西門院御給で正三位に叙せられている。基家は上西門院因幡とともに平頼盛の娘も室とし、前者との間に一一五五年に嫡子基宗が、後者との間に一一六七年に保家が生まれている。一一六一年九月に滋子の子憲仁の立太子を画策したとして平時忠、教盛とともに解官されているが、頼盛は含まれておらず、滋子との関係が原因であったと思われる。基家の嫡子基宗は一一六六年一二月に上西門院去年大嘗会御給で従五位上に、一一七二年正月に正五位下に叙せられている。女院の叙位推薦枠が基家-基宗父子とともに能保に使われていることがわかるが、前者が優先度が高かった。

2020年11月 5日 (木)

叡子内親王の誕生

 鳥羽院と美福門院の第一子として保延元年一二月四日に誕生したのが叡子内親王であるが、生まれるとすぐに鳥羽院皇后泰子の養女となり、院号宣下後は高陽院内親王と呼ばれた。そのもとには肥後国鹿子木庄が寄進されたことでも知られる。得子所生の内親王の将来を考えての措置であったが、久安四年一二月八日に一四才で死亡した。
 長承三年(一一三四)八月の時点で得子の関係者=長実の子達が処罰を受けていたが、伯耆守時通と備後守長親はその後復活した。時通は藤原宗通の養子となることで元永三年(一一二〇)に初任の受領=因幡守となり、次いで宗通が死亡すると因幡国は実父長実の知行国となった。長親も保安三年(一一二二)に宗通の子重通に代わって備中守になったのが受領初任であった。五味文彦氏は時通と長親が処罰から復活した時点で両国は知行国主が美福門院(得子)にうつったとされたが、三〇才前後とみられる両者の年齢(年齢の長幼は不明だが、嫡子顕盛は一一〇〇~一一三四)からすれば、父長実の死後は独立した国守となっていたと思われる。
 得子が鳥羽院の寵愛を受ける段階から第一子誕生という段階となったため、鳥羽院の意向で両人は国守を解任されたのではないか。備後国は顕盛の子で一七才の俊盛(二年前に叙爵)が後任となったが、半年で藤原為忠跡の丹後守に遷任している。伯耆国は一三才の藤原光頼が国守となり、父顕頼が知行国主であったことは確実である。問題は俊盛を支援したのは誰かである。母方の祖父敦兼は保延四年に出家するまでは可能であり、その子季兼(生年不明だが同母兄)、季行(一一一四年生)もいるが、内親王誕生の前後に組織されたであろう得子(未だ女御でもないが)の分国とされ、その家司によって経営されたと思われる。
 俊盛の父顕盛も死亡するまで五年以上にわたって尾張守をつとめており、その関係者の支援も考えられるが、恨み骨髄の顕盛の死亡した(一月二六日)その年に子俊盛が叙爵(一月五日)しているのは偶然ではなかろう。ただし、叙爵は恂子(後の統子)内親王給であり、父顕盛、母方の祖父敦兼が白河院-待賢門院の近臣であったことを背景としているが、二年後の備後守起用は得子の甥としてのもので、俊盛の政治的立場が大きく変えられたことがわかる。
 俊盛がわずか半年後に丹後守に遷任した跡に備後守に補任されたのは為忠の子為経(盛忠から改名)である。この点は五味文彦氏『院政期社会の研究』に収録されなかった氏作成の「院政期受領表」で指摘されており、関係史料をみても妥当である。為経は保延四年正月の除目で長門守に遷任している。為経はその後出家して寂超と名乗り歌人として活躍するが、為経と美福門院加賀との間に生まれた隆信が美福門院分国の国守を歴任している。為忠の子達については井上宗雄氏「常磐三寂年譜考」(『国文学研究 21』早稲田大学国文学会、1960年)や鈴木佐内氏「藤原為忠の事歴とその子常磐の三寂の出家をめぐって」(智山学報第37号、1988)で詳細な検討がなされているが、為経を俊盛の前任の備後守と考えている。国文学研究者は実証的で詳細な検討をされるが、当該期の国司の動向は断片的資料を政治史の中で位置づけないと判明せず、国文学にも精通した中世史家五味氏の面目躍如であろう。『国司一覧』をみても「備後守為経」関係史料への言及はない。

2020年11月 2日 (月)

仁平三年四月六日の除目3

 翌仁平四年九月一二日夕方に小除目が行われた。左兵衛督忠雅が主担当で参議西園寺公通と左少弁平範家により行われた。駿河守と筑前守に欠員が生じたための補充人事であった。筑前守は藤原清隆の子清成が死亡したため、同じく清隆の子である頼季が後任となった。駿河守も忠弘(広)が死亡したことに伴うものであろう。藤原俊教が起用された。俊教は雅教と藤原顕能(顕頼の同母弟)の娘との間に生まれている。康治二年正月の除目で皇后宮(得子)御給で叙爵し、仁平二年正月には美福門院御給で従五位上に叙せられている。同母兄弟である雅長が叙爵したのは久安四年正月五日(この日に除目が行われたことは本朝世紀により確認できる。尊卑分脈だと仁平二年二月八日だが、この日には除目は行われているが、叙位は従四位下藤原隆長以外は不明)であり、俊教は同母兄となる。保元二年一〇月二二日には内裏西廊造営賞を俊教から譲られて雅長が従五位上に叙せられている。その後俊教の動向は不明であり、間もなく死亡した可能性が高い。
 弟雅長は保元三年一二月には八月に即位した新帝二条に昇殿を認められ、四年四月一六日には中宮姝子の初入内賞で正五位下に叙せられている。平治元年八月一四日に駿河守を兼ねたのが、兄の死亡によるものであろうか。雅長は永暦元年七月には不仕により一旦除籍されたが、応保三年正月には父雅卿が中納言を辞したことで左近衛権少将に補任され、三月一五日には二条天皇への昇殿を再度認められている。長寛二年正月には高松院(姝子)御給で従四位下に叙せられており、姝子(上西門院養女でもあった)は後白河院派ではなく二条天皇派に属していた。永万元年六月二五日には新帝六条に昇殿を認められ、七月二五日には高松院御給で従四位上に叙せられた。
 その後、二条院と藤原基実が相次いで没したことで、後白河院と滋子との間に生まれた高倉天皇が即位したが、雅長は嘉応元年九月には天皇から昇殿を認められた。二条天皇派の中心であった藤原経宗(その室は清隆の娘)と同様、後白河院政下でも生き残った。治承三年正月には従三位に叙せられて公卿となり、元暦二年正月には参議に補任された。

 

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