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2020年10月26日 (月)

下野守藤原為親から

 源義朝の後任の下野守は一一六一年三月一〇日(月日は旧暦)に下野守復任の除目があった「正四位下藤原朝臣為親」である。日野資憲-藤原宗長-源義朝と摂関家との関係が深い人物が続いたので、為親の系譜上の位置を確認しようと思った。すると、同日に復任していたのは「出羽国 守従五位上高階朝臣泰任〔経〕」と「越後国 守正四位下藤原朝臣邦綱」(木工頭も)であった。泰任は前後の関係史料から、「日本一の大天狗」の候補者(河内祥輔氏による)にもなった後白河院近臣泰経の誤記である。この時三二才であるが、当方が注目していたのはその母が藤原宗兼の娘=池禅尼の姉妹(同母かは不明)であったことである。池禅尼が危篤となり、頼盛が賀茂臨時祭への使者を辞退したいと申し出たのは一一六二年一一月のことなので、今回のケースには該当しないが、泰経の母ないしは父泰重が死亡したことによる復任である可能性が高い。
 為親といえば摂関家家司でもあった藤原親隆の子為親がいる。公卿にはなっていないが『弁官補任』によりその経歴を確認できる(編纂所データベースでは『史料総覧』の綱文に関する史料がヒットするが、Wikipediaでも『弁官補任』から引用されている)が別人である。正四位下とは公卿の一歩手前であり、同じ位階であった邦綱も公卿に昇進しているが、為親に関する史料は、これ以外みえない。『尊卑分脈』にも該当する人物はみえない。ということで題名が「から」となった。[修正]下野守為親は正五位下(保元三年一二月叙)の誤りで、親隆の子為親であろう。皇后宮(得子)大進となっているが、やはり摂関家関係者となる。右中弁であった承安二年正月一九日に朝覲行幸行事賞、建春門院御給で従四位上に叙せられ、翌年以降の弁官リストにはみえない。
 邦綱(1122-81)とは大学の卒論で伊予国弓削島庄を扱った際に、前述の藤原能盛とともに出逢った。摂関家有力家司でありながら、平家による摂関家横領事件に加担したと言われていたが、近年の研究では、松殿基房に対抗するため、清盛の娘で基実の後家となった盛子が摂関家領を相続したもので、押領ではないと評価されている。邦綱の関係者で注目したのは、崇德の御願寺成勝寺に最多の三ヶ所を寄進した増仁の娘(高倉院女房少納言)が邦綱の妾となって、子重邦を産んでいることである。増仁の姉妹が忠通の乳母であった讃岐宣旨で、為房の妾として、朝隆・親隆兄弟を産んでいる。邦綱の娘には未婚でありながら高倉天皇の乳母となった邦子がいる。一一六五年に典侍となり、別当三位と呼ばれ、宣陽門院領にも「女房別当三位家領」五ヶ所がみえる。一一七九年一一月の平家のクーデター時は子基能が右衛門尉の位記を止められており、後白河院派であったのだろうか。一二〇六年には非参議公卿となっている。
 重邦は近衛家家司(下厩別当)としての活動が一一九七年正月三〇日から一二一一年三月一五日まで確認でき、同年正月二三日には子邦成とともにみえている。一二一三年正月一八日に後鳥羽院が蓮華王院修正に臨幸した際の記事にも殿上人の中に重邦がみえる。邦成は一二五〇年に「前尾張守(一二四六年在任)邦成」とみえ、重邦の娘左京大夫が一二四六年の時点で近衛家領尾張国長岡庄を知行している。邦子は邦綱の早い時期の子で、基能、重邦は晩年の子であろう。一一九八年三月二七日の石清水八幡宮臨時祭では故大納言邦綱卿息男である右衛門佐基能が新舞を披露している。
 一一六二年三月一〇日までの邦綱の假服の対象者が誰であったかは不明とせざるを得ないが、成勝寺領の寄進者増仁も待賢門院・崇德流とともに摂関家との関係を有した人物であることが再確認できた。

 

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