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2020年10月 4日 (日)

藤原季行の妻

 季行の妻である中御門宗能の娘が姝子内親王の乳母となった時期を、康治二年頃としたが訂正する。宗能の嫡子宗家は保延五年(一一三九)、宗能五五才時に生まれている。母は藤原長実(一一三三没)の娘である。宗忠には藤原為隆の娘との間に生まれた男子も四名以上いたが、晩年の子宗能が嫡子とされた。宗能の娘(宗家の同母姉である可能性が大きい)が季行との間に嫡子定能を産んだのは久安四年(一一四八)である。季行は三五才であった。宗家の母である長実娘は得子(一一一七生)の妹である可能性が高い。季行と得子の関係は康治二年にまで遡るが、季行と長実孫娘との結婚は定能誕生の少し前であろう。季行が美福門院別當となったのは定能誕生の翌年(一一四九)である。季行の同母兄季兼も『山槐記』仁平元年一〇月一六日条には中宮(呈子)亮としてみえる。中宮呈子は藤原伊通の娘から、美福門院の養女となり、次いで藤原忠通の養女として近衛天皇に入内していた。
 仁平二年一〇月には呈子の懐妊着帯が行われ、一二月二二日には産所とされた季行宅に移り、安産祈願もなされたが、予定日とされた翌年三月になっても出産せず、九月になって懐妊は誤りであったことが確認された。季行宅が産所に選ばれた背景には、兄季兼と呈子の関係とともに、季行と美福門院の関係があったと思われる。産所への移動に供奉したのは、大納言伊通(呈子父)、権大納言成通(伊通の同母弟、中宮大夫重通の同母兄、姝子内親王の勅別当)、三条公教(母は顕季の娘)、権中納言忠雅(母は家成の娘)、参議為通(伊通子、中宮権大夫)であった。
 以上により、季行の妻=宗能の娘=長実の孫娘が同じ長実の孫娘である姝子の乳母となったのは久寿元年の内親王宣下の少し前であったと思われる。

 

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