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2020年10月 3日 (土)

中御門宗忠の子達

 以前、因幡守宗成について述べた際に、五味文彦氏が知行国主父宗忠のもとでの国守であるとされたのに対して、さらにその上に分国主として白河院がいた可能性があると述べたが、宗成は五四才であった保延四年四月一一日に正四位下参議兼近江権介で死亡しているため、公卿補任でその昇進状況を確認できる。天永二年七月二九日に因幡守に補任されたことについては「功」とのみある。父宗忠が『中右記』(除目の聞書には因幡守補任のみ記す)で具体的な功について述べている。宗忠の功や、異母弟(叔父)である故忠良の功を併せたものであったが、それを後押ししたのが殿下(忠実)の広恩であった。『殿暦』にも余申すに依る也とある。病死した前任者長隆が摂関家家司であったことも影響したであろう。因幡守に補任された天永二年の時点で宗成は二七才であり、前任の長隆同様、知行国主はいないのではないか(このあたりが知行国制はファジーである)。
 宗忠の叔父宗通の子達は院分国の国守を経験しているが、宗忠の嫡子宗能は受領を経験していない。右大臣藤原俊家の長子基頼は持明院家の祖であるが、受領や鎮守府将軍に留まり、異母弟宗俊が権大納言にまで進んだ。俊家晩年(五三才)の子宗通は母が白河院の近臣藤原顕季の娘であったこともあり、権大納言になるとともに、院の寵臣となった。これに対して宗忠は摂関家との関係を強めていた。基頼が五一才の時に嫡子となる通基が誕生している。基頼自身は八三才まで生きているが、将来を考えて通基は一九才年上の叔父宗通のもとでその子達とともに成長した。名前に「通」が付いているのはそのためである。通基は待賢門院別当であったが、鳥羽院別当にはみえない。
 宗通の子は伊通と成通が両方の院の別当としてみえるが、宗忠の子宗能はみえない。宗能は崇德天皇のもとでは昇進を重ね、中宮(聖子)権大夫にもなったが、近衛天皇のもとでは久安五年七月に権大納言に昇進した程度である。久寿二年九月の後白河天皇の即位時に守仁親王の春宮大夫となり、保元の乱後の九月に大納言に昇進、永暦二年九月に内大臣になっており、二条天皇派であった。後白河院のもとでも下文の署判者としてはみえず、美福門院庁下文に別当として署判をしている。宗能の娘が藤原季行の妻となるとともに姝子内親王の乳母となったことも忘れてはいけない。宗能の経歴をみるとまさに待賢門院-崇德流に属していたことがわかる。

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