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2020年10月13日 (火)

源義朝の政治的立場

 源義朝・頼朝父子と崇德院との間の関係を強めたのは、仁平元年(一一五一)に頼朝の母の姉(熱田大宮司季範の娘)と源師経の間に産まれた娘である三河権守(父師経の官職による)が崇德院の皇子(出家して元性、後に覚恵)を生んだことであろう。この年九月二八日の除目で季範の子範忠が民部少丞から式部丞(正六位上相当の大丞であろう)に昇進している。範忠の生年は不明だが頼朝の母の同母弟であろう。
 久寿二年(一一五五)八月(旧暦)に近衛天皇が死亡するまでは、鳥羽院の後継として治天の君となるのは崇德院であろうと多くの人が思っていた。仁平三年三月二八日の除目で頼朝が叙爵とともに下野守に補任され、季範の子式部丞範忠が叙爵したことの背景が判明した。義朝と近衛天皇中宮呈子に仕えていた常磐との間に最初の子である阿野全成が生まれたのは仁平三年であり、その関係はその前年にまで遡る。仁平二年一〇月以降、呈子が妊娠したとの期待が増大し、一二月には呈子は産所となった藤原季行宅へ退出した。季行の同母兄季兼(敦兼子)は中宮亮として呈子に仕えていた。ところが一一五三年三月になっても出産とならず、九月には妊娠は誤りであった結論付けられた。まさに近衛天皇の皇子誕生の可能性が潰えた時点で、崇德院皇子の関係者である義朝と範忠の叙爵と任官が実現した。崇德天皇との関係が義朝を後押しした。この除目を主導したのは義朝の母の年上の従兄弟で実質的庇護者であった参議藤原清隆である。
 頼朝の同母弟希義は仁平二年の生まれとされるが、同母妹坊門姫は久寿元年(一一五四)の誕生である(一一四五年では一一九〇年に難産によって死亡した際の年齢が四五才と高すぎるとの角田文衛氏の説に同意する)。坊門姫の娘で九条良経(一一六九年生)との間に道家、教家、立子を生んだ女性について仁安二年(一一六七)生との説(最初と最後の出産との間が二三年というのも長すぎる。何が根拠なのか未確認であるが、没年も一二〇〇年とある。同年一二月九日には良経の母兼子が死亡し、良経が母儀で一二〇一年二月一一日に復任している)があるが、建久三年(一一九二)生まれの立子が長子であることから、一一七〇年代前半の生まれではないか。坊門姫と一条能保の間に産まれた嫡子高能は安元二年(一一七六)生まれである。頼朝や坊門姫を生んだ季範の娘は平治元年(一一五九)に死亡している。
 系図では季範には待賢門院女房となった女性がいたとされるが、両者を結びつける存在として熱田神宮が所在する尾張の国守に注目すると、大治四年(一一二九)二月から長承三年(一一三四)正月まで在任が確認できる藤原顕盛が注目される。大治二年正月に父長実から修理大夫の地位を譲られたが、白河院の権力を背景に鳥羽院の要望を握り潰したことの報復として、白河院が没した翌大治五年四月二六日に修理大夫を解官され、一旦は六月二〇日に復任したが、一〇月五日には修理大夫を希望した院近臣藤原基隆と交代させられた。白河院が没した直後の大治四年八月一六日に更新された待賢門院庁の別当に顕盛も含まれており、季範の娘が待賢門院女房となるのを可能としたのは尾張守顕盛であろう。ただし顕盛は尾張守在任中に死亡し(その後、尾張国は忠実の知行国となる)、公卿になることはなかった。顕盛の前任も長実の子長親で、長実は美福門院得子の父としての側面が強調されるが、待賢門院・崇德天皇とも強いパイプを持っていた。
注:関係者の生年、年齢で混乱があり(特に範忠と義朝の長幼)、訂正した。一条能保の母は德大寺公能の娘とされるが、公能と能保はギリギリ可能ヵという三二才差であるなど判断が難しい。

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