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2020年10月19日 (月)

雑掌孝助と孝宗の合戦1

 この事件の背景を確認したい。①建武元年五月一八日雑訴決断所牒(千家文書、大社397)では、大社神主孝時の訴えが認められ、前雑掌の濫妨を停止し、神主孝時に庄家を沙汰せよとの命令が出雲国衙に出された。これは②前年一二月の大社領の本所号停止の後醍醐天皇綸旨(千家、大社391)に基づくものであった。しかし建武政権の崩壊により、領家雑掌が北朝と幕府に越訴を行い、国造孝時との間で裁判が始まった。その直後の③七月五日後醍醐天皇綸旨(千家、大社398)が出され、大社造営を先例に任せて沙汰せよとの命令が出されているが、こちらは「杵築大社国造館」と使い分けられている。大社領の問題ではないが、建武二年一二月一日には兵革に際して祈祷の丹誠を抽んずるよう求めた綸旨(北島、大社407)が「杵築大社国造館」に出されている。奏者は大膳大夫中御門経季で、③の時点では宮内卿であった。一一月末に尊氏・直義兄弟の誅伐を命じた後醍醐天皇綸旨(軍勢催促状、大膳大夫経季が奏者)が出されているが、無年号のものが多く、この時点ものとして間違いない。本来は一斉に発給されたものであろうが、同日同内容のものとして残っているのはこれ一通である。
 後醍醐天皇は建武三年に尊氏に降伏し、三種の神器を持明院統に渡して光明天皇が八月一五日に即位したが、一二月二一日には密かに吉野に逃れ、自らの退位を否定して、異なる天皇を抱く南朝と北朝が分立する事態となった。これをうけて、関白近衛経忠(氏長者、前年八月一五日に新帝=光明詔により関白補任)が建武四年四月五日に吉野宮に出奔し、参議経季が七月二〇日に参議を辞任している。経季は暦応二年二月には京都に戻り、北朝のもとで本座に復している。
 話を戻すと、後に千家村は山科氏領となっており、この時点ではまだ分かれていなかったことになる。そうなると、孝宗が清孝の跡をうけて本来の神主館を使用していたことぐらいしか合戦の理由は考えられない。領家雑掌の立場としては神主に別の人物を補任して、神主館の明け渡しを迫ることは十分ありうる。これに対して北島貞孝は本来の国造館を利用していたと考えられる。
 出雲孝時が④譲状(北島家文書、大社405)を作成したのが建武二年一一月二日、⑤置文(北島家文書、大社406)は同月一五日である。この時点ではなお建武政権の時代なので孝時は神主であった。⑤は「のりとき」のみだが、④は「こくさうかんぬしのりとき」と署名している。国造の決定権を委ねられた泰孝後家覚日は、自己の所領を子孝景に譲る旨を記した譲状を一二月三日に作成した上で、⑥建武三年六月二日に清孝に神主・国造職と所領を譲る旨、甥の出雲守護塩冶高貞に伝え(北島家文書、大社416)、⑦六月五日には高貞が覚日書状とともに清孝に渡した(北島家文書、大社418)。⑥は孝時の死に伴い出されたものであろうが、その中で前年冬に大社の文書を訴訟のため京都に送り、玉造の僧「めうせう御房」に預け、その受領書を四日に高貞に送ることを述べている。これが後に孝景が清孝との間に返還を約束した文書で、結果的には北島貞孝に渡された。それは不当だと後に千家方の大社神官が申状に記しているが、④の置文、⑤の譲状、⑥覚日書状、⑦高貞奉書=叔母覚日の意向を奉じたものは全て清孝のもとではなく、その後継者となることが決まっていた貞孝のもとに保管された。七月二三日に守護高貞が大社領の下地を国造清孝に打ち渡し、孝景以下の者が抵抗する場合はその交名を注進するよう、日野掃除左衛門入道と富田弥六入道(頼秀)に命じている(北島家文書、大社419)。

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