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2020年10月12日 (月)

藤原教長と崇德院2

 永久の変で失脚した輔仁と源師忠の娘(隆暁の祖父師隆の姉妹)との間に生まれた有仁は左大臣となったが、後継者のないまま久安三年(一一四七)に四五才で死亡した。この有仁に源行宗と藤原(日野)有隆の子達が使えていた。益田氏系図で初代とされる国兼も事実ではないが有隆の子とされていた。有隆の子有義、有遠、有範、季隆はいずれも花園左府勾当であったとされている。前述のように彼らが有仁の死後、行宗の養女となっていた兵衛佐局との関係で崇德院に仕えた可能性を指摘した。
 義朝の母方の祖父忠清の関係者には有仁、待賢門院、皇嘉門院、八条院に仕えた人々がみえる。忠清の子行俊は待賢門院蔵人となり、花園左府女房であった女性(橘清信の娘)との間に生まれた清定は八条院蔵人となっている。忠清の娘が年上の従兄弟清隆の庇護のもと為義の室となり義朝を産んだことは前述の通り。行俊の兄弟清兼の子康俊は待賢門院蔵人、惟清は左大臣勾当、清俊と清時は皇嘉門院蔵人である。また清兼の娘は源師行との間に有房を産んだが、有房は有仁の養子となっていた。以上の点を踏まえれば、有仁の死後、彼に仕えていた人々が待賢門院の子崇德や、崇德の中宮皇嘉門院聖子に仕えた可能性は大きいといえる。
 本ブログでは待賢門院・崇德流の人々は保元の乱後は非後白河院の立場を取ることが多かったと考えている。具体的には二条天皇派であったり上西門院に仕えた。上西門院女房であった滋子が高倉天皇を産んで建春門院となると、その女官に移動した人々も多数いた。また、待賢門院と美福門院を対立者としての側面のみ見るのでは不十分である。美福門院の子姝子が待賢門院の子統子内親王(上西門院)の養女となったことを契機につながりがうまれた。義朝の子朝長が中宮(姝子)少進となり、頼朝が立后された統子内親王の皇后宮権少進となり、院号宣下後の上西門院の蔵人、さらには二条天皇の蔵人となったことは矛盾しない。いずれも非後白河院派である。
 頼盛と八条院女房大納言との間に嫡子光盛が誕生したのは承安二年(一一七二)で、両者の間に関係がうまれたのはこの少し前からであろう。頼盛の娘と持明院基家(母は上西門院一条で、上西門院因幡との間に嫡子基宗が生まれている)の間に保家が誕生したのは仁安二年(一一六七)であった。頼盛は姝子が内親王となった際に家司としてみえ(一一五四、五六年)、平治の乱後は二条天皇の求めにより異例の再入内をした大皇太后多子の大宮亮となったように美福門院・二条天皇派であった。

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