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2020年10月14日 (水)

源隆保の生年について

 崇德院の子覚恵の母の同母兄弟である源隆保について、弟と推定した。覚恵の母は一一五一年に覚恵を産んでおり、遅くとも一一三〇年代前半には生まれていたことになる。崇德、聖子、兵衛佐局より一〇才程度年少であろうか。
 隆保の終見史料は建仁三年(一二〇三)六月二五日に、土佐国への配流処分が解除されて本位に復したものとの見解がWikipediaに記されている。頼朝の死亡直後に一条能保・高能父子(両人ともすでに死亡)の遺臣が土御門通親の襲撃を企てたとして、後藤基清外三名が逮捕され、能保と関わりの深い隆保も関与したとして土佐に配流された。
 隆保について編纂所の大日本史料データベースで検索すると、藤原隆保の記事と混乱がみられるが、一つ一つ確認すると、復位以降の記事が若干ある。建仁三年一〇月一日には近江国が源兼定(鎌倉幕府と密接な関係を有した雅頼の長子)に与えられているが、それは復位後に同国を与えられた源隆保が八月二四日に辞退したことをうけてのものであった。兼定は五五才であるが、この翌年に左少弁、二年後に従四位下であり、非参議公卿となったのは承元四年(一二一〇)であった。幕府との関係での国主であろうか。国守には子兼平が補任されている。当初の隆保の人事も幕府との関係であろうか。
 『明月記』元久元年(一二〇四)九月七日条には、訪問先(中納言殿)で隆保朝臣の妻が死亡したことを聞いたことが記されている。妻は定家の異母(近衛院備前内侍=源季兼妹)姉で、年少時より隆保の妻となり、隆保が死亡した際に出家したことは聞いていたが、未だあったことはないとしている。中納言からは定家は軽服となるのではないかとして、除服の手続きをとるように言われ、退出している。藤原隆季の子隆保は建久八年三月に従三位公卿となり建在であるので、隆保とは源隆保である(建仁二年四月二三日条にも源隆保妹と妻が確認出来る)。隆保は復位後間もなく死亡したことになる。隆保は配流の時点で左馬頭兼安芸守だったが、左馬頭は建久五年正月に一条高能から譲られたものであった。隆保の経歴は文治二年に能保の知行国主讃岐の国守に補任される以前は不明だが、その妻は二条院兵衛督とも呼ばれ、二条天皇の女房でもあった。
 源季兼は摂関家家司として豊後守、対馬守、石見守を歴任し、能登国若山庄を皇嘉門院に寄進したことでも知られているが、その娘が日野氏惣領資長との間に久安元年(一一四五)に嫡子兼光を産んでいることからすると、源隆保とその妻は一一四〇年代前半には生まれていたと思われる。一条能保、源頼朝よりは年上であったことになる。

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