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2020年10月22日 (木)

建春門院滋子1

 当ブログでは藤原顕隆と忠俊の子孫に注目していることは前述の通りである。建春門院については角田文衛氏の論文があるが、未見である。近々確認するが、その前にまとめてみたい。
 美川圭氏『後白河天皇』を読んでいるが、納得できる点としかねる点が混在している。後者の一つが後白河が滋子を寵愛した背景として、美貌であったからだけではなく,彼女が実務官僚系の最有力院近臣と摂関家側近との間の女であったから、彼女を通じて政治的基盤の脆弱な後白河が、朝廷の実務に影響力をおよぼそうという意図が含まれていたとした点である。滋子の母祐子は勧修寺流で鳥羽院近臣であった顕頼の娘であり、父時信は摂関家家司平知信の子であった。
 これに続いて滋子の異母姉時子について言及しているが、時子と同母弟時忠の母が大膳大夫右少将家範の女とし、その父の位階から分析を加えているが、これは何によっているのだろうか。とりあえずは公卿補任の時忠の項を参照したが、母の関する記述はなかった(親宗の項には時忠と母は同じとあるが、後述のように成り立たず誤りである)。国会デジタル版『尊卑分脈』をみると、時信の子として順番に時忠、親宗、時子、滋子以下がみえ、時忠には母の記述がないが、時子には「母同」とある。その前の親宗の母が大膳大夫藤家範女とあるので、時子・時忠の母も家範女としたのだろう。
 ただ『分脈』には写される中で順番の間違いもよくみられる。実際の年齢巡は時子、時忠、滋子、親宗の順番となり、時子と親宗の年齢差は一八才である。その間に祐子を母とする滋子がいることを勘案すると、時子・時忠の母は親宗とは違う可能性が大である(後述のように一一四〇年には藤原顕憲との間に能円を産んでいる)。本来、年齢差であったのが、いつしか男子が先でその後に女子を記載するように変化した中での間違いであろう。そうでなければ『補任』に記載があるはずである。『吉記』には両者の母は令子内親王に仕えていた女性で一一八〇年の死亡時に八〇才代とのみあり、時信より年上である。美川氏は院政期の専門家としては不似合いな初歩的誤りを犯している。
 時信の生年は不明だが、一一一二年生の弟信範の三年前に文章生となっており、三才程度年長であろうか。と思っていたら一一三〇年に二七才とあり(知信記)、一一〇四年の生まれであった。時子が生まれたのが二三才、滋子より二才年少の親宗誕生時には四〇才で、一一四九年に四六才で死亡したことになる。一一三〇年には大学助平時信の昇殿が認められているが、一方では「女(待賢門)院北面」でもあった。一一三六年には父知信とともに内(崇德天皇)殿上人としてみえる。近衛天皇即位後の一一四一年の鳥羽院庁下文の署判者として「兵部権大輔平朝臣」がみえ(九条家文書)、四三年には、通憲(信西)とともに鳥羽院判官代であった(本朝世紀)が、院庁下文では別当の末尾にみえ、次いで異母弟信範が判官代としてみえる。一一四二年五月五日には鳥羽院と藤原忠実が東大寺で受戒しているが、その際に、藤原顕頼とともに奉行を務めたという。こうした中で顕頼の娘祐子を正室に迎えたのであろう。その理由としては顕頼が時信のひととなりを評価したぐらいしか思いつかない。
 ともあれ滋子が八才の時に父時信が死亡したため、滋子は母の実家=顕頼のもとで育てられたと思われる。滋子の母祐子は顕頼と俊忠の娘との間に生まれており、本ブログの待賢門院・崇德流に属している。同母弟には光頼・惟方・成頼がいた。一一五九年二月一九日に皇后宮であった統子が上西門院となり、殿上始めが行われた。殿上人となった前皇后宮大進成頼(二四才)は、その日記によると一二才年上の兄光頼から出仕をうながされているが、あまり本意ではなかったようである。こうした中で一八才となった滋子も上西門院統子の女房となったのだろう。建春門院となった滋子の女房に上西門院女房からの移籍組が多いのは当然である。滋子については清盛の後室時子の異母妹という側面が強調されるが、時子とは母が異なるがゆえに、待賢門院・崇德流に属していた点がより重要である。

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