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2020年10月 8日 (木)

長門国向津奥庄について1

 この庄園を扱うのは大社領と同じ時期に再寄進・立券が行われているからである。この庄園について述べたものとしては田村哲夫氏「防長庄園の地域的考察(続)」(山口県文書館研究紀要3)と木村忠夫氏「長門国」(講座日本庄園史9 中国地方の庄園)がある。『山口県史』通史編にも関係記述があったと思うが、田村氏の論考と大同小異であろう。その成立に関しては永暦二年二月二六日後白河院庁下文(妙法院文書)しかなく、要はここからどれだけ情報が引き出せるかである。田村氏は鳥羽天皇の時代に立券が行われ、妙法院の庄園となったとする。永暦二年の四十余年前に立券されたとあるので天皇は問題がないが、後者は誤りである。永暦二年に妙法院主昌雲が新日吉社に寄進したものである。妙法院は天台三門跡の一つであるが、後白河院がこれを京都に移した。新日吉社も同様に後白河院が日吉社を自らの御所のある法住寺内に勧請したものである。
 向津奥庄は昌雲が継母である藤原顕隆の娘から譲られた私領であった。木村氏が昌雲を藤原道長の子長家の五代の孫であるのとしたのは正しいが、問題はここからである。昌雲は俊成の同母兄忠成の子で、頼朝と早くから関係を持った光能の弟(同母か異母かは不明)である。忠成・俊成の母は伊予守藤原敦家の娘であり、顕隆の娘との直接的関係はない。関係があるのは忠成の父俊忠である。前述のように藤原家政に嫁いだ顕隆の娘が、雅教を生んで間もなく家政が死亡したため、俊忠に再嫁し、その間に豪子、俊子などを生んでいる。昌雲の父忠成が一〇九一年生まれに対して、顕隆の娘が家政との間に雅教を産んだのは一一一三年であり、顕隆の娘は忠成の継母であるが、年下であった可能性が高い。そのため、昌雲が顕隆の娘の所領を譲られたのだろう。
 以上を踏まえると、向津奥庄は顕隆が白河院に寄進する形で成立し、その死後、顕隆の娘を通じて昌雲に譲られたことになる。寄進時の長門守は高階能遠かその後任の藤原有業であろう。能遠は系譜上の位置づけが未確認であるが、忠実の家司を務めており、摂関家当主の日記に散見する。有業は資業の兄弟広業系日野氏の行家の子で、母は藤原南家実範の娘である。実範の孫には熱田大宮司となった季範がいるが、それ以上に注目されるのは、有業の母方の従姉妹に顕隆の正室となり、鳥羽天皇の乳母となった悦子がいることである。悦子の子には嫡子顕頼、顕能と崇德天皇の乳母となった栄子(忠隆の正室)がいる。これにより向津奥庄の成立は日野有業が長門守であった元永元年(一一一八)初めから後任の高階経敏(信西入道の養父)に交替した大治元年(一一二六)初めまでであろう。長門守有業は璋子が産んだ崇德以下の子の誕生に伴う行事で役を負担し、忠通の娘聖子が崇德天皇に入内した大治五年二月には中宮権大進に起用され、五月には大進に昇進している。長承元年五月一五日に四五才で死亡した事が、資業流日野氏の娘を母とする中御門宗忠の日記『中右記』に記されている。
 保元の乱後に藤原信頼(その母は顕頼の娘)が知行国主となると、初めて「押倒」されて公領に戻されたのであろう。そこで領家昌雲は上西門院(統子内親王)に訴え、庄園として再度認められた。問題はなぜ訴えたかである。統子内親王は待賢門院の娘である。保元の乱までは待賢門院領は崇德院が管理していたが、院が保元の乱で讃岐国に配流されたことが、信頼による押領をもたらした。御願寺領(円勝寺、法金剛院、成勝寺)は存続を認められたが、崇德院自らの庄園は没収されたと思われる。中には待賢門院庁分領から崇德院庁分領となったものもあった。待賢門院領は原則的に統子内親王領となり、崇德院領で没収されたものは結果として後白河院領となった。

 

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