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2020年10月23日 (金)

建春門院滋子2

  手元に栗山圭子「池禅尼と二位尼-平家の後家たち」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』)があるので読みなおしてみた。美福門院得子が崇德院の子重仁と雅仁の子守仁を養子としたことについて、得子の用意周到な措置と述べているが、得子は重仁誕生時二四才であり、鳥羽院の意向以外には考えられない。この辺に氏のセンスのなさを感じる。次いで『今鏡』をひいて、得子の養子となった重仁の諸事万端は重仁母(兵衛佐局)の実家(養父源行宗)方や「内の御乳母子の播磨の守」らが取り仕切るように仰せられたことを引用する。播磨守とは崇德の乳母宗子の子藤原家成であるとするが、重仁誕生時の播磨守は藤原忠隆、その前任者は藤原清隆で、家成が播磨守であったのは重仁誕生の四年前(一一三六)までである。その時点で権中納言兼右兵衛督であった家成を播磨守と呼ぶことはない。家成の母宗子は一一二九年一月二四日に四三才で死亡している(『中右記』同日条)。その前から重病であったことが記されている。家成は崇德より一二才年長で、顕保という同母兄もいた。これに対して現職の播磨守忠隆の妻栄子(顕隆の娘で顕頼の同母姉妹)も崇德天皇の乳母であり「乳母子」は「乳母夫」の誤りではないか。藤原清隆の場合は妻家子が皇太子体仁の乳母となっている。内=近衛とすれば清隆は乳母夫である。
 栄子の生没年は不明だが、栄子を母とする忠隆の嫡子隆教(室は忠盛娘)は崇德天皇と同世代で、崇德天皇が退位した直後に崇德の母待賢門院の周辺の人物が得子を呪詛したとして配流処分となったことに抗議して天皇への供奉に参加せず、停任処分を受け、復任後間もなく死亡したことは前述の通りである。総合的に判断して播磨守は現職の忠隆とすべきであろう。これまでの研究は家成の母の姪が池禅尼であることに引きずられ過ぎていた。
 偶然ではあるが、『中右記』の同日条には、二〇才であった平清盛が正月の除目で叙爵して左兵衛佐に補任され、人々の耳目を驚かせたことも記されている。なお白河院の時代であり、白河が崇德の側近として期待した家成(兄顕保が本来の嫡子であった)は、一方では鳥羽院分国の国守にもなっていたが、清盛の叙爵任官が家成の力で実現したとは思われない。家成の父家保も健在で、待賢門院の院号宣下により中宮(璋子)亮から女院別当に転じていた。次いで白河院没後の除目で保安二年以来の播磨守から伊予守に遷任している。
 池禅尼が重仁の乳母となったのも、忠盛と待賢門院の関係がまずあった。両者の間に生まれた家盛も近衛天皇即位直後の儀式に参加せずに隆教(停任、室は忠盛娘、年齢的には家盛の同母姉の可能性がある)とともに処罰(こちらは恐懼)を受けていた。そしてその母は宗兼の嫡子宗長と同様、日野有信の娘であった可能性が高い。宗長は待賢門院判官代であり、崇德院の最側近日野資憲は有信の嫡子実光の子であった。清盛の異母弟教盛は日野資憲の娘を妻としたが、それは教盛が待賢門院・崇德流に属していたからである。院政期の政治史は根本的見直しが必要である。なお、時子の母については当然のことながら、『吉記』に基づき記されていた。時子の母はその後藤原頼長の家司(頼長の母の兄弟でもある)藤原顕憲との間に一一四〇年に能円を産んでいる。能円は保元の乱の時点で一七才であるが、異母兄達は崇德・頼長方となって解官・配流されている。能円が異父姉時子の養子となったのは乱後であろう。

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