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2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛3

 幕府の方でも①正安二年閏七月五日関東御教書(千家、大社336)では大社造営奉行として出雲守護信濃二郎左衛門尉貞清、浅〔朝〕山二郎左衛門尉時綱、多祢次郎左衛門尉頼茂の三名が補任され、神主が三名と協力して造営の沙汰を行うよう命令されている。造営奉行は本来は国司が補任すべきものであるが、実質的には体制を一新するために幕府・守護が口入したものであろう。②同三年一二月五日(大社町史、出雲大社文書は十一日とするが松江市史の五日が正しい)の関東御教書(千家、大社339)でも神主に対して造営を奉行して完了するよう命じている。さらに③同四年四月一〇日の関東御教書(千家、大社340)では、正応・永仁年間の御教書に任せて出雲国内に段別三升米を宛課して造営を完了するよう神主に命じているが、④延慶元年(一三〇八)一二月一〇日関東御教書(千家、大社348)では、大社造営について造営奉行である守護佐々木貞清(その妹覚日が前国造出雲泰孝の後家であった)から申状が提出されたことをうけて、国造に対して造営記録を急速に進覧すべきことが命じられている。⑤正和元年(一三一二)五月二〇日六波羅探題御教書(千家、大社349)でも、正月二五日関東御教書を施行して、子細を尋究するため文書=造営記録を帯して不日参洛することが命じられている。
 ③までは国造=神主と造営奉行は協力関係にあったが、④⑤では造営奉行と国造の関係に問題が生じている。④⑤と延慶二年以降、領家雑掌孝助と孝時代定範の間で裁判が開始されているが、それとともに、御教書の宛所が神主宛から国造宛に変わっている。これに関係して正和三年七月一六日に前領家松殿兼嗣が袖判下文(小野家文書、大社353)により虎一丸を三崎社検校に補任している。それに先立ち、嘉元四年八月三〇日信照(松殿兼嗣)書状(国立歴史民俗博物館所蔵田中家旧蔵文書)により、兼嗣が領家に返り咲いていることが確認できる。嘉元三年九月一五日に亀山院が死亡したことと、兼嗣が後二条天皇の第一皇子邦良親王の母五辻宗子の兄親氏を通じて働きかけた結果である。その代償として兼嗣は大社領千家村を一期分として親氏に譲っている。
 領家の交替は神主を独占していた国造と領家との関係を一変させた。前領家廊御方も前任の兼嗣の時期に一旦解任された実政を神主に起用して国造と対立し、結果的には幕府の口入により国造を神主にせざるを得なかったが、大社領について不案内であった廊御方と兼嗣は違っていた。また、国造が主導した大社造営も結果としては進んでいなかった。領家兼嗣は実政の関係者である孝助を雑掌に補任して、国造を圧迫して主導権の確保を図ったと思われる。大社造営が国衙(幕府)方である造営奉行と大社雑掌によって行われることになり、これに反発する国造が造営旧記の公開・提供をこばんだ結果、④⑤の関東御教書が出されたと思われる。そして延慶二年からは国造側の雑掌定範と領家雑掌孝助の間で幕府で裁判が開始された。

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