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2020年10月 9日 (金)

妙法院昌雲について

 昌雲が顕隆娘の所領を継承した経緯は前述の通りであるが、昌雲自身について確認する。僧侶が子を持つことと法然、親鸞との関係を述べたが、一方では崇德院の子重仁の母兵衛佐局も実夫は法勝寺執行信縁であった。法然以前でも子を持った僧侶はたくさんいる。ただし、世俗の関係者の養子になることが多い点が特色であろうか。
 大日本史料データベースを検索すると昌雲は、安元二年五月二七日に明雲が僧正となった跡の権僧正に昌雲が補任されている。明雲と言えば清盛との関係が深かったことで知られている。明雲は村上源氏顕通を父とし、同族の広綱の娘との間に生まれ、藤原家保の娘を室としている。三才下の異母弟雅通は醍醐源氏能俊の娘を母としたが、五才で父が死亡(42才)したため、叔父雅定の養子となり、やはり家保の娘を正室とした。後鳥羽院政前期を主導した通親は雅通と美福門院女房から八条院女房となった女性の間に生まれた。本ブロクでは通親もまた待賢門院・崇德流に属す人物だと評価している。文治元年一二月に頼朝が出した意見書が後白河院の人事に影響しなかったとする元木泰彦氏の見解が誤りであることは前述の通りである。
 寿永二年九月一五日に後白河院が日吉社に御幸した際には天台座主明雲とともに日吉別当昌雲を賞している。次いで元暦元年四月三日には大僧都昌雲が新日吉検校に補任され、八月二六日には上西門院御不予により祈祷を行い、僧正から大僧正に昇進している。そして文治二年には前大僧正昌雲が妙法院門跡を相伝してきたとして、待賢門院御願寺円勝寺寺務執行職に補任されるとともに、妙法院門跡と本尊・聖教並びに寺領庄園を領掌することを後白河院宣で認められている。昌雲が待賢門院とその子である上西門院並びに後白河院と密接な関係を有していたことは前述のとおりである。
 『尊卑分脈』(『大日本史料』引用分)では持明院基宗の嫡子家行(家能)の母について、民部大輔忠成の娘とする一方で、それが家行の祖父基家の子となり、且つ実は昌雲僧正の娘であったとする。最初読んだ時は意味が理解できなかったが、家行の母は昌雲の娘として生まれたが、父が僧籍にあったため祖父忠成の娘となり、さらには持明院基家の養女となってその嫡子基宗との間に家行を産んだことになる。家行の孫が長海本庄地頭基盛であった。長海庄が本庄と新庄に分かれ、本庄は持明院家領となり、新庄が德大寺家領となった背景として、昌雲が円勝寺寺務執行職にあった事があったことは確実である。忠成は俊忠の長子で俊成の同母兄であるが、その長子が東国武士足立遠元の娘を妻として、頼朝と早くから連絡を取っていた光能であった。光能は保元の乱での配流を許されて都に戻った藤原教長の訴えを受けて讃岐院の除霊のために尽力した。光能を単なる後白河院近臣とする理解は誤っている。忠成には德大寺公能妾となった娘、家行の母となった養女とともに、以仁王の妾となり真性を産んだ娘がいた。また忠成の姉妹が公能の正室となり嫡子実定を産んでいる。本ブログで説いている待賢門院・崇德院流の中で藤原俊忠の子が果たしている役割が確認できた。

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