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2020年10月25日 (日)

平親宗について1

 平時信の子達の母親に関する系図と公卿補任の情報には混乱がみられたので、親宗本人について確認する。
 親宗は一一九九年七月二七日(月日は旧暦)に死亡した。年齢には小幅なズレがあるが『明月記』の記す五六才が正しいとされる。一一四四年の生まれとなる。『補任』には母は時忠と同じとあるが、時忠の母は一一四〇年に藤原顕憲との間に能円を生んでいる。また、時信も一一四二年には藤原顕頼の娘との間に滋子が生まれており、親宗は時忠の異母弟である。『尊卑』はその母について大膳大夫家範の娘とするが、物理的に不可能なことは前述の通りで、家範の嫡子基隆の娘ならギリギリ可能である。
 一一六〇年九月二七日に一七才で蔵人に補任され、一〇月二二日に叙爵したが、それ以前に一院(鳥羽)判官代を務めたことがあった。父時信は六才時に死亡し、その翌年には母の異母兄忠隆が亡くなっている。忠隆の嫡子隆教が早世し、その後に嫡子となった信頼も忠隆死亡の直前に土佐守から武蔵守に遷任したばかりであった。信頼はその名から母方(顕頼)の従兄弟光頼の影響下にあったと思われる。光頼は忠隆の死亡時に三七才、従四位上右中弁で、保元の乱直前の一一五六年三月の除目で参議となり、乱後の九月一三日に従三位に序せられている。四三才であった。前述のように、元服時の異母姉の夫藤原親隆との関係も想定できる。
 親宗は一一六六年には父にちなむ兵部権少輔に補任され、一一六七年正月の除目で朝覲行幸に院司としてかかわったということで従五位上に叙せられ、二月七日には伯耆守を兼ねている。前年一〇月一〇日に滋子の子憲仁の立太子が実現し、滋子も従三位に叙せられ、正月には女御となっている。それに先立つ一一六六年九月六日には藤原清隆の娘の関係者が鞍馬寺に参詣している。これを記した三条実房は公教と清隆の娘との間に一一四七年に生まれている。実房の扈従者に「親宗」がみえる。一一六八年四月九日酉刻(一八時前後)に伯耆守親宗から実房に今夜新院(六条院)の行幸があるが、日頃供奉する人々が所労により参向しないので、供奉するように依頼があり、実房は参院している。中宮(育子)権大夫源定房、右京大夫藤原邦綱(摂関家家司)、皇后宮(忻子)権太夫藤原朝方、六角宰相家通(藤原忠教の孫。父忠基は清隆の娘を室とする)、中宮大進藤原光長(経房同母弟)が参加したとある。二条天皇派の面々であろうか。
 一一六八年一一月二〇日に高倉天皇即位に伴う大嘗会が行われた際に、二年前の基実の死により摂政となった松殿基房の参入に、右大臣九条兼実、内大臣源雅通、左大将藤原師長(頼長子)が所労を理由に扈従せず、これに立腹した基房が参入を拒否した。そのため、皇太后滋子が皇太后宮権大進であった伯耆守親宗を使者として遣わして説得し、ようやく基房が参入するという事件があった。このため、雅通と師長が解官された。親宗は一一七三年八月には蔵人・右少弁に右衛門権佐を兼ね、三事兼帯となった。実務能力にすぐれていたことになる。三〇才であった。
 一一七九年一一月の平家のクーデターで一旦は後白河院近臣として右中弁等の職から解却された。三年後の一一八一年九月二三日に復帰して左中弁となり、一二月には右大弁と蔵人頭を兼ねた。清盛が死亡し、後白河の院政が復活したためである。この点からも、親宗が時子・時忠の同母弟であるとする『補任』の記述は誤りである。これは角田氏も論文で述べているにもかかわらず、美川氏が誤ったのは不可思議であり。

 

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コメント

どうも一読者であります。先日読んだ本に、気になる箇所を見つけてたので報告します。
清獬眼抄に、[右衛門督時忠卿(依為聟公也)]とありました。当該の箇所は、[後清記録]の引用文らしので、清原季光の聟にあたるようです。
ネット上の情報で、不明点がありますが、平時忠の前妻は不明とあり。これが正しければ、清原季光の娘が前妻の可能性が出てきました。
何かの参考になるかと思いコメントしましたが、既出やすでに、ご存知でしたら申し訳ないです。

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