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2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛2

 永仁五年二月一一日越訴頭人奉書(文書名は松江市史による、北条宗宣が六波羅探題に就任したのは七月、北島国造家文書、大社331)により、大社神主職をめぐる出雲実政との裁判に決着が付き、国造に対抗する存在はなくなったとの佐伯徳哉氏の評価は妥当であろうか。残されている文書の表面のみみればそのような評価も可能だが、二〇〇三年と四年の論文であきらかにしたように、大社関係の文書は取捨選択して意図的に残されている(廃棄される)とともに、一三世紀前半までの年紀を持つ大量の偽文書が作成されている。それを踏まえた上で解釈を積み上げていかなければ、論文のレベルには達しない。最近発見された北島国造家文書の新出分にも幕府関係文書が含まれているとのことで、それを利用すればさらに研究の精度が向上するが、単に文書の表面をなぞったのみの場合と仮説を立てながら分析、検証した場合の違いを以下で示したい。
 文永七年(一二七〇)正月に大社本殿が焼失し、造営が開始されたが、弘安一〇年(一二八七)に遷宮が行われた本殿は規模を縮小したものであった。大社領の領家松殿兼嗣が自らの主導権を確保するため、出雲泰孝を更迭し、請文を提出したであろう出雲実政、次いでその父真高を神主に補任したことに国造は反発し、造営記録の提出を拒否し、造営が進まなかったことと、幕府が口入したことで泰孝の父国造義孝が神主に復帰した。また造営の一方の核である出雲国衙についても、宝治二年(一二四八)の遷宮までとは事なり、知行国主が短期間で交代している。大社造営の行き詰まりは永仁六年(一二九八)五月(北島、大社333)と一〇月(千家、大社335)の二通の関東御教書にも明らかで、その原因は弘安一〇年遷宮と同じく「国衙無沙汰」にあったため、幕府が乗り出して出雲国の正税を造営料に寄せられるべきかとの意見が述べられている。永仁七年三月二九日関東御教書(千家、大社336)によると「神主泰孝」が造営の遅れを訴えた申状が提出されたのを受けて、懈怠無く造営を行うとともに、子細を報告するよう「奉行人中」に命じている。この時点までは国造泰孝が神主であったことと、すでに大社造営奉行が存在したことがわかる。
 正安二年(一三〇〇)以前に比定できる二月九日出雲国宣(千家、大社296)により、大社造営に関する院宣が出され、国衙と社家が協力して沙汰するとともに、番匠下向と作事の次第については旧記に任せて報告するよう国造に命じている。続いて九月二八日には具体的に造営米と庭夫以下の事について命じる伏見院院宣が出されている。正安三年正月に天皇が持明院統の後伏見から大覚寺統の後二条に交替したことにより、伏見院政から後宇多院政にかわった。これにともない、知行国主の交代が行われ、日野俊光に代わって藤原為方が出雲国知行国主となった。同年九月一六日(大社町史、出雲大社文書ともに廿八日としているが、写真で確認すると松江市史の十六日が正しい)には前年の院宣と同内容の後宇多院院宣(千家、大社307)が出され、それが国宣により国造に伝えられている。ただし嘉元元年(一三〇三)四月には知行国主が西園寺公衡に交替しており、国衙による安定した政策の継続は困難であった。同年八月二二日には国宣(千家、大社163)により仮殿造営に関する院宣が出雲国目代に伝えられ、同時に知行国主西園寺公衡御教書(千家、大社345)により、院宣と国宣の内容が国造に伝えられたが、嘉元三年一二月三〇日には藤原致連が出雲守に補任されており、知行国主も交替した可能性が大きい。

 

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