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2020年10月21日 (水)

出雲国知行国主西園寺公衡

 嘉元元年八月二八日に出された杵築社造営に関する二通の文書について、一七年前の論文で示した西園寺公衡の関係文書でよいということはすでに述べた。松江市史では西田友広氏により花押の主が藤原経継ヵとされたが、経継とは明らかに異なり、公衡とは大変よく似ている。御教書の奏者であった前石見守安倍朝臣と公衡の関係についても述べた。今回は、公衡が出雲国知行国主を退任した時期が明らかになったので以下で述べる。
 編纂所古記録データベースで検索したところ、新たな関係史料がヒットした。編纂所のデータベースは大日本古記録のシリーズの最新刊を除くものが検索できる。新たな巻が刊行されたことで、検索対象が増えたと思われる。具体的には嘉元元年一〇月二九日の除目で源輔能が出雲守に補任されている(『実躬卿記』)。輔能自身については他の史料がなく、系譜上の位置づけも不明であるが(同日に叙爵している源輔顕がおり、どちらかが誤記と思われる。下総守平俊親も叙爵では大江俊親とある)、知行国主については同年一一月一二日条の五節の舞姫の記事から判明する。担当したのは花山院中納言(家定)と左大弁宰相藤原経継、丹後国知行国主洞院実泰、出雲国知行国主二条道平である。この時点で参議であった経継には知行国はなかったことがわかる。また出雲国は右大将道平分でありなあがら,実際に沙汰したのは道平の父である関白二条兼基であった。道平は永仁三年(一二九五)に公卿となっているが、一七才であり、実際の沙汰は三七才の兼基が行った。ただし知行国主は道平である。やはり知行国制はファジーである。
 西園寺公衡の出雲国知行は嘉元三年一二月三〇日の藤原致連の国守補任までと思っていたが、実際にはその二年前に道平と交替しており、短期であった。これでは大社造営が進むはずはないし、これ以降の知行国主の大社造営関係文書は残っていない。公衡が嘉元三年一二月二二日に伊予国、伊豆国とともに史料では確認できない出雲国をも召し上げられたと述べたのは誤りであった。
 ①嘉元元年八月二八日の公衡御教書の袖判と大変よく似ているのが②嘉元四年七月二二日公衡書状と③同日公衡御教書の袖判(ともに奈良県大宮兼守氏所蔵文書)、並びに④延慶元年一二月二三日公衡書状(円覚寺文書)。②③④は『花押かがみ』4巻にも掲載されているが、②③は刊本未収録でその内容は未確認である。嘉元元年八月時点の出雲国知行国主が西園寺公衡であったことを裏付けるもので、公衡が知行国主であった際の国守が西園寺家の家司としてみえる橘氏(宗成)であることも整合性がある。

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