koewokiku(HPへ)

« 大社領本家柳原宮 | トップページ | 出雲国知行国主西園寺公衡 »

2020年10月21日 (水)

年未詳一〇月八日出雲国宣

 年未詳文書は内容と花押から判断するしかないが、表記の①一〇月八日国宣は大社町史(井上寛司氏による)で花押のみから建長三年八月の国司庁宣の次に配され(しばらくここに収める)、出雲大社文書(佐伯徳哉氏による)でも建長元年の大社遷宮注進状と康元元年の大社領注進状の間に配置され、最新の松江市史(これが一番正確。当方もかかわり、二〇〇三年と四年の論文で無年号文書の比定を大幅に修正したが、市史ではそれを踏まえて西田友広氏が判断)でも、明確な判断材料がなかったのか、大社町史を踏襲している。当方も松江市史の時点では明確な判断はなかった。
 国宣の奏者については、大社町史、松江市史が「左衛門尉□□」と名前が判読不能としたのに対して、出雲大社文書では「左衛門尉秋兼」と判読している。写真を見ても、書かれている字形は明確であるが、どの漢字にすべきか候補を思いつかない。宛所の「綾小路大夫判官」について出雲大社文書では国守としているが、目代である。
 次に時継の花押をみると、出雲国知行国主第一期の最後のものとなる文永元年一〇月八日国司庁宣からプロポーションが変わっている。『花押かがみ』第三巻には主なものを掲載しているが、花押カードデータベースではすべてを確認できる。微妙だが、建長年間以前のものとは違うことは確かである。文永元年の花押はなぜか最後の一角が省略されているが、それを除けば一番近い。日付も同じである。年未詳の時継花押には②三月一日国宣のものもあり、後筆で書かれた「建長六年」が採用されている。政盛跡が伊弉諾社料田に寄進されたのが建長五年であるためであろうが、これも花押は文永元年以降のものである。
 平時継が知行国主の時期の国宣としてはこの外に③弘安二年六月六日国宣(国造に対して留守所と共に造営を行うよう命じる)、④九月二一日国宣(弘安四年の追記あり、宛所が欠落しているが、今年中に遷宮を終えるよう目代へ伝えたものであろう)、⑤一二月二〇日国宣写(政盛跡五段田について目代に伝える)があるが、奏者がいずれも右衛門尉章宣であり、時継が再度国主となった弘安年間のものである。年未詳で建長年間に配置されていた二通①②の国宣は花押からは文永元年以降のものとしたが、やはり時継第二期のものであろう。②の国宣では政盛跡屋敷が変改されたとの国造義孝の申出に対して、屋敷のままで政盛の母である老尼が居住しており、義孝には代所を与えることを述べている。⑤では政盛跡の五段田が国司庁宣で伊弉諾社の使丁直田として載せられたが、屋敷之稿(耕ヵ)作であることを存ずるよう目代に伝えられている。なお、時継の第二期国主の時期は国司庁宣がみえず,国守を確定できない。子忠世、経親が出雲守に補任されたことがないことは確認できる。
 以上、史料集で建長年間に配置されていた①②はいずれも時継が二度目の国主となった時期のものであることを明らかにした。建治二年一〇月一八日に吉田経俊が死亡したことで時継に交替しており、その時期は建治二年末ないしは三年初めであろう。弘安四年末頃に出雲国は亀山院の分国となったが、大社造営問題もあって、短期間で交替し、弘安六年三月二八日には持明院統と関係が深い平兼有が出雲守に補任されている。
   なお、弘安三年九月一八日関東御教書が北島家譜に引用されているが、この時期の他の類例は確認できず、正しい文書ではない可能性が高い。同年一二月八日関東御教書(鎌倉遺文一四二〇七)で豊後国守護大友氏に明年四月中に「蒙古異賊等」が襲来することが伝えられている。

« 大社領本家柳原宮 | トップページ | 出雲国知行国主西園寺公衡 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 大社領本家柳原宮 | トップページ | 出雲国知行国主西園寺公衡 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ