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2020年10月 7日 (水)

石見国の承久新恩地頭

 伴氏が益田氏と同様の国御家人ではなく、国外から入部した御家人(以下では便宜的に東国御家人とする)である可能性が高まった事を述べたが、次の問題は鎌倉初期かそれ以降かである。後者の代表例は承久の乱である。淡路国では守護佐々木経高が御家人を率いて京都大番役を務めていたため、多くの御家人が没落して、新たに東国御家人が地頭となった。ただ、中には鎌倉初期に淡路国内の所領を得て、さらに承久の乱の恩賞として新たな所領を加えた例がみられる。淡路国大田文をみればわかるが、そこでは乱以前から国御家人が地頭となっていたが、乱で没落したように記されている。これについて石井進氏が、国御家人の場合は地頭と記されていても、実際には庄官や郷司であったとの説を出され、中野栄夫氏が同意された。当ブロクでは明確な根拠が無い限り、石井氏の説は成り立たないことを述べたが、五味文彦氏は大田文の記載に疑問を出されていない。これが当然の考えである。
駿河国御家人が梶原景時討伐の恩賞として、淡路国の旧梶原氏領を与えられたが、本領が駿河国であったため、経高に率いられず、乱では幕府方となったものである。石見国でも同様の事例が考えられる。鎌倉初期に石見国内所領を得たが、承久の乱では守護佐々木広綱とは違い、幕府方になったものである。
 相模国御家人土屋氏は土肥氏や小早川氏と同族で、出雲国と石見国内に所領を獲得している。平家との関係が深かった蓮華王院領加賀庄や大原郡福田庄は鎌倉初期に獲得したものである。これに対して秋鹿郡秋鹿郷は乱以前は有力在庁官人中原氏の所領であり、乱の恩賞として獲得したものである。石見国でも大田郷(南北)は鎌倉初期に獲得し、桜井庄は乱で獲得した可能性が高い。石見国での承久新恩地頭としては田中稔氏が指摘した長野庄内美濃地黒谷郷地頭菖蒲氏と内田氏関係文書によって知られる長野庄内豊田郷と那賀郡貞松名が知られるのみであったが、本ブロクでは那賀郡宇津郷を新たに加えた。そこでは、田村資盛が鎌倉初期に来原郷と長野庄内白上を得、資盛の子で武蔵国越生氏に養子に入り、越生郷内岡崎村を譲られていた有政が、承久の乱で宇津郷を得たとしていたが、久留島典子氏により公開された長野庄関係者の系図を踏まえると、田村資盛が石見国内の所領を得たのは承久の乱の恩賞と考えるべきとすべきである。資盛が鎌倉初期に石見国に所領を得ていた場合、武蔵国御家人越生氏との婚姻が成立する可能性が低い。以上のように、長野庄内白上郷と那賀郡来原郷も承久新恩として資盛が獲得し、子である盛家と盛次に譲り、越生氏に養子に入っていた有政もまた乱で恩賞を得たのである。
 伴氏の場合も石見国内に広く分布する所領の一部が鎌倉初期に得たもので、その後、承久新恩地頭として新たな所領を与えられた。後者の候補となるのは河上郷、都治郷、都野郷、有福などの国内中央の処領である。石見国では承久の乱以前の守護佐々木氏領が不明であるが、長野庄内の所領とともに那賀郡内の所領がその有力候補である。とりあえず、モンゴル襲来時に更迭された伊藤氏の所領稲用郷が守護領だということが確認される唯一の所領である。

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