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2020年10月29日 (木)

源頼政の娘

 角田文衛氏は源隆保の娘が源頼政の室となっているとされたが、系図では頼政の娘が「隆保卿室」とあるので、源隆保ではなく、公卿になった藤原隆保とすべきである。ただ問題は後者の隆保が一一五〇年生である点である。頼政は一一〇四年生であり、ありえない開きではないが、一一四〇年以前の生まれとした源隆保も棄てがたい説である。頼政は平治の乱の始めまでは義朝と同一歩調を取っていたが、途中で清盛方に転じて、乱の勝者側となった。
 藤原隆保は隆季の子であるが、兄隆房が清盛の娘を室としたことで、一族は平家との関係を強めた。隆季自身は本来は待賢門院・崇德院派であったため、近衛天皇の即位後は昇進面で相対的に冷遇されていたが、平治の乱で信西入道が排除され、その後、平家と結んだことでその地位は向上した。因幡国は一二世紀前半は待賢門院・崇德派の人々が国主・国司となったいたが、平治の乱後、隆季の知行国となったことで、在庁官人等はその地位を維持することができた。その例が因幡国の高庭介資経で、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことで、その子が平家方となったにもかかわらず。頼朝から所領を安堵された。資経は崇德院の側近日野資憲の影響下にあり、後に知行国主隆季を通じて平家との関係を強めた。
 頼政が平家と接近するのは一一七六年に六条上皇が死亡した後であり、そこで頼政娘が藤原隆保の室となることはありうるが、頼政の娘で藤原重頼の室となった二条院讃岐も一一四〇年頃の生まれとされており、藤原隆保の室となると、頼政が五〇才近くになって生まれた娘となる。これに対して、源隆保の室(これとは別に、藤原定家の異母姉が室であった)となれば、一〇年程度早まり、讃岐宣旨と同年代となる。系図の「隆保卿」を重視すれば藤原隆保の室となるが、それを除くと源隆保の室のほうが可能性は高くなる。その場合は平治の乱の前に婚姻関係が結ばれたことになる。

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