koewokiku(HPへ)

« 仁平三年四月六日の除目1 | トップページ | 仁平三年四月六日の除目3 »

2020年10月31日 (土)

仁平三年四月六日の除目2

 下野守は四年前の三月一八日に藤原宗国が補任されていた。この後任を検討する中で義朝が浮上したが、その一方で一三日に上野介信盛も死亡した。義朝は上野介に補任される可能性はあったのだろうか。下野国は摂関家の関係者が前任で、上野国は美福門院分国であった。同日に刑部卿に補任された雅教は仁平二年一二月三〇日に藤原忠弘(公卿補任・山槐記。兵範記は忠弘とする)を申任ずるため駿河守を辞任し、三月五日には美福門院御給で従四位下に叙せられている。翌年正月に従四位上に叙せられたのも女院給であった。雅教の同母姉であろう家子は近衛天皇の乳母であった。
 忠弘は雅教の関係者であろうが系譜上の位置付は不明。親忠の曾孫に忠弘がいるのみ(『分脈』)。と思ったら、親忠の子親弘が相模守に補任された際に「元上総介」とあったのを思い出した。当時の上総介は、安楽寿院領橘社の立券を妨げた小槻師経-藤原季兼(呈子の中宮亮で、季行の同母兄)-源資賢であり、他人の入り込む隙間もない。親弘が相模守に補任されたのが仁平二年正月二八日、信盛が隠岐守から上野介に遷任したのが二月九日である。親弘は美福門院得子が叡子内親王を産んだ保延元年一二月二五日に文章生から民部丞に補任されている。次いで天養二年正月の除目で上野介に補任され、二期八年務めた後に相模守に遷任したと思われる。
 忠弘は親弘の最初の名前かとも思ったが、相模守在任中と重なるので、親弘の兄弟とみるのが妥当であろうか。美福門院御給で叙されてきた雅教が美福門院乳母夫親忠の子と思われる忠弘に駿河守を譲った形である。まさにその対価が従四位上叙任であり、刑部卿補任であった。前任は誰かと思ったら、一月一三日に平忠盛が刑部卿を辞任し、一五日に五八才で死亡していた。忠盛は仁平二年二月二日に播磨守から刑部卿に転任している。九年前に正四位上に叙せられており公卿目前であった。これに対して雅教は従四位上で四三才であり、優遇人事であった。
  当方は隠岐守信盛が上野介に遷任したのが、ともに美福門院の分国ではなかったかを確認するため、検討を続けてきたが、ことここに到っては、隠岐国が女院分国であったことは明白であろう。また、藤原清隆も複数のルートとつながって活動していることがわかる。この記事から下野守も美福門院人事であると誤解する人がいることを懸念する。雅教の叙位が女院給であるのに対して、義朝は故善子内親王(白河院娘)合爵、範忠は故聡子内親王(白河院同母姉)合爵での叙爵である。雅隆は前年末の駿河守辞任時から準備されていたのに対して、義朝と範忠は急遽決まったため、このような変則的な理由付けとなった。善子内親王は伊勢斎宮を退下して都に戻ったさいに、清隆の父隆時宅を御所として入ったという縁があった。藤原宗国の下野守補任は四年前の三月一八日であり、二八日はぎりぎりのタイミングであった。

 

« 仁平三年四月六日の除目1 | トップページ | 仁平三年四月六日の除目3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 仁平三年四月六日の除目1 | トップページ | 仁平三年四月六日の除目3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ