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2020年10月24日 (土)

建春門院滋子3

 角田文衛氏「建春門院」(以下では角田論文)を読んでいる。角田氏の仕事は大変評価できる一方で、思い込みも随所にみられ、後進の研究者がそれを訂正していくことで、その価値はさらに高まるはずであるが、それがなされていない。ある意味では独力で『遺文』を編纂した竹内理三氏と相通ずるところがある。『遺文』は大変便利であるが、文書名や人物の比定の修正、さらには追加資料の発掘という作業によりその価値は更に高まる。ところが、角田氏の仕事を無批判にうけれる研究者が多いのが問題である。責任は角田氏ではなく後進の研究者にある。
 今回は美川氏が系図史料を扱う場合に、史料批判なしに安易に利用しているのが問題であった。角田論文では「堂上平氏略系図」が掲載され、そこには時子・時忠の母は「令子内親王半物」とあるが、本文中には時子には双子の姉妹がいるように書かれている。姉が時子で、妹は藤原顕隆の異母弟親隆の室となり嫡子親雅を産んでいる。親雅は一一四五年生まれであり、その母が一一二六年生まれの時子と年齢が近いのは確かであろう。時子が清盛の子宗盛を産んだのは一一四七年である。親隆は母が忠通の乳母であった讃岐宣旨であることもあって待賢門院のみならず摂関家との関係が深かった。時信の父知信、弟信範も摂関家家司であった。
 系図には時信の子親宗の母は「大膳大夫藤原家範娘」とあるが、本文中では修理大夫藤原基隆の娘で美福門院少将局であると述べてある。家範の嫡子が基隆である。そこで『尊卑』を確認すると、親宗の母が家範の子と基隆の子の両方に記されていた。そこで家範の晩年の娘が嫡子基隆の養女とされたとの想定が可能となる。家範は一一二三年に七六才で死亡し、基隆は一一三二年に五八才で死亡している。一方、親宗の誕生は一一四四年である。物理的には家範の娘であるならば、出生(父が六〇才と想定)は一一〇七年頃までなので親宗を産んだのが三八才以上となる。そうすると基隆の晩年の娘であったとするのが合理的解釈である。基隆には藤原信通(一〇九一年生)、成通(一〇九七年生)の室となった娘がいた。前述のように時信は一一〇四年生であったが、親宗の母は、二才年上の異母姉滋子の母祐子(一一二〇年代前半の生)と同世代と考えられる。
 親宗の母は一〇才前後で父基隆が死亡しており、異母兄忠隆の庇護下で時信と結婚したと考えられるが、親宗が六才時に夫時信は死亡している。忠隆の嫡子隆教は前述のように一一四三年暮れに死亡している。その異母弟信頼は一一三三年生(母は顕隆の嫡子顕頼の娘)であるが、一一四四年に皇后得子御給で叙爵し、四六年には得子の娘八条院御給で従五位上となっている。親宗の母が美福門院女房となったのは異母兄忠隆との関係であろう。その忠隆も親宗が七才である一一五〇年に死亡しており、親宗が元服した際にかかわったのは、時子の同母姉妹を室としていた藤原親隆ではないか。
 親隆は忠実の子忠通、高陽院、頼長にも仕えていたが、頼長が近衛天皇、次いで鳥羽院からの信頼を失うと距離を置くようになる。久寿元年(一一五四)正月に頼長の子兼長が春日上卿となり奈良に赴いた際の行列には多くの公卿・武士も従ったが、翌二年に異母兄師長が上卿となった際には、公卿の不参者が目立ち無勢であった。平信範は『兵範記』の中で、頼長の執事であった親隆が不参なのは奇とすべしと述べている。近衛天皇が死亡し、後白河が即位し、その子守仁が春宮となると、親隆は春宮亮に補任され、永暦元年二月一三日美福門院庁下文には筆頭別当の位置に署判を加えている。

 

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