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2020年10月29日 (木)

源有仁と崇德院

 有仁は後三条天皇の晩年の子輔仁の子である。父が永久の変により皇位継承の可能性がなくなる中、一一一九年一〇月に源姓を賜り従三位左近権中将とされた一七才の有仁を閑院流藤原公実が娘聟にしている。その娘は藤原経実の室と璋子(待賢門院)の同母姉妹であった(『續世継』)。有仁との間に子はなかったとみられるが、姉妹の娘を養女とした懿子が待賢門院の子雅仁との間に守仁(二条天皇)を産み、父経実が死亡した時点で一三才であった経宗は待賢門院のもとで成長している。その三才年上が女院近臣源師時の晩年の子師仲で、三才下が源能俊の晩年の子光隆であった。一一三五年三月四日に女院と鳥羽院の前で闘鶏が行われた際に右方の人々の中で上下とも水干装束の師仲を鳥羽院が賞しているが、経宗と光隆は指貫の袴に水干狩衣の出で立ちであった。前述のように、三人の中で最年少の光隆は女院と同じ一一四五年に死亡したが、残る二人は信西入道排除を主目的とする平治の乱で主導的役割を果たしている。
 崇德天皇の後宮に有仁に仕えていた源行宗の養女兵衛佐局が入ったのは、有仁の室が崇德の母待賢門院の同母姉という縁からであった。同様に、有仁が一一四七年に死亡した後、仕えていた公家が崇德院に仕えるようになったのではないかと推測したが、そのパイプ役となる立場の有仁室は一一五一年九月二二日に死亡している(『本朝世紀』)。
 以前は崇德は輔仁の即位を阻止した白河の曾孫であるので、なぜ、行宗の養女である兵衛佐局と結び付くのか不思議であったが、わかってみればなんということもなかった。なお有仁のもとには師仲の異母兄師行の嫡子有房が養子に入っていたが、一〇代半ばで有仁が死亡し、有仁の娘との間に子が誕生しなかったのか、花園左大臣家を相続せずに、実家に戻って活動を続けている。

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