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2020年10月25日 (日)

平親宗について2

 親宗は一一八三年正月には参議に補任され公卿となったが、六月末の平家の都落ちには随行せず都に留まった。同年一二月の木曽義仲のクーデターで解官され、一一八五年一二月には義経との関係で解官されている。後白河院との関係が強かったことを意味している。一一八七年正月に還任し、正二位中納言にまで進んだが、一一九八年一〇月には興福寺・春日神人が和泉守宗信を訴え、宗信は解任・配流され、国主であった父親宗は九月一二日に補任されたばかりの大嘗会御禊装束使長官を解かれている。親宗の死を知った藤原定家は、自身も解官され、子は流罪人となったのに、一一九九年正月には従二位から正二位に進み、六月には権中納言から中納言に昇進、さらには死の直前の七月一三日には子親時を国守として加賀国知行国主となったことを厳しく批判している。
 親宗の嫡子親国は藤原光隆の娘を室としたことで、一一九八年三月に範子内親王が土御門院の准母として皇后宮となると、皇后宮大進を兼ね(後に亮)、一二〇一年一二月には皇后宮御給で従四位下、一二〇四年正月には土御門天皇母在子(承明門院)給により正四位下に叙せられ、土御門天皇の蔵人頭となった。次いで一二〇六年には従三位に叙せられ、非参議公卿となったが、二年後に四四才で死亡した。親国の嫡子が出雲国知行国主として宝治の大社造営を行った有親であった。有親は藤原光隆の娘を母とすることから起用されたと思われる。当時の大社領家は光隆の孫重隆であった。
 有親は一二一五年四月には順徳天皇の中宮立子(書いたことをすぐ忘れるが、頼朝の同母妹が能保の間に生んだ娘が母、同母兄弟に道家と中宮権大夫となった教家がいる)のもとで中宮権大進に補任され、翌年正月には従五位上となったが、三月二八日には権大進を辞し、それ以降承久の乱までは散位であった。それが承久の乱後、守貞親王の子が後堀河天皇として即位したことで、環境が改善した。有親と守貞親王の関係は不明だが、順徳天皇の即位(一二一〇)により即位の可能性が失われた守貞は出家し、有親は鳥羽・順徳とは距離を置いていたことが、乱後の登用と急速な昇進につながったか。一二三一年二月に生まれた後堀河の子秀仁親王が一〇月二八日に立太子されると蔵人頭であった有親は春宮亮を兼ねている。
 佐伯徳哉氏は「有親の父方の叔父平親長は、安貞二年には正四位下で蔵人頭、寛喜二年には従三位に登るなど、実務官僚として天皇の秘書局長の要職から公卿へと昇進を遂げている。」と述べているがこれを書いた意図は不明である。親長の生年は不明だが、有親とは逆に一二一九年に立子の中宮大進に補任されており、鳥羽・順徳に接近した。このことが乱後の昇進に影響し、親長は一二三〇年に非参議公卿(極官は正三位治部卿)になったのみであったが、有親は一二三二年に参議となり、従二位まで進んだ後に出家している。正五位下になったのは親長一一九四年、有親一二二二年と二八年の違いがあったにもかかわらず。

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