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2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛4

 これに関して、前述の出雲実政関係史料について再確認する。国造側は孝助が実政の関係者であったことにより、実政について関係者に照会したと思われる。その回答が年未詳一〇月二八日沙弥法願書状(千家文書、大社302)であり、副えられていたのが中納言僧都御房袖判預所実政奉御教書(北島家文書、大社301)であった。以前は廊御方から中納言僧都御房に大社領家が交替したと述べたこともあったが、具書の実政奉書の宛所である細引桑原田沙汰人中と大社領の関係は不明であり、訂正する。はっきりしているのは、御教書はその中で後二条天皇の即位に関して「去年御代始検注段米」と述べていることから、正安四年五月二五日のもので、法願書状はそれ以降のものとなる。具体的には国造と領家雑掌の裁判が開始された延慶二年以降のものとなる。元神主実政自身が大社領の雑掌となったわけではないが、裁判において関係者である孝助の援助を行うことは十分あり得るのである。
 文保三年正月二五日には六波羅探題が、去年一二月二五日関東御教書に任せて、大社造営を完了するよう国造に伝えている(千家、大社357)。実際には国造抜きの造営は困難だったため、国造が再び関わったためであろう。元亨三年三月五日関東御教書(千家、大社361)では、大社造営に国衙正税半分を宛てるはずが、予定された石高が確保できなかったため、当座の負担を経替て造営するとの国造の提案を幕府が了承している。後に北島国造貞孝が元亨三年七月二五日の棟上等仮殿遷宮に関する記録を注進しており(北島家文書、大社564)、本来の正殿とは異なる小規模なものではあったが、それから間もない時期に大社遷宮は完了した。これに関して嘉暦二年九月五日関東御教書(千家、大社370)では、文保二年一二月二五日の御教書で大社造営料が一万一千八七〇余石と定められたが、実際に勘定したところ七千五八〇余石に過ぎなかったとして、正応・永仁の例に任せて段別三升米を賦課して造営を行うことが神主に伝えられている。
 国造が神主職を失った可能性を述べたが、国造側の文書にも変化が出ている。徳治二年三月二〇日の出雲泰孝置文(北島家文書、大社346)では「国造大社神主」と署名していたが、一二月五日の譲状(北島家文書、大社347)では神主職を譲るとしながらも「国造兼大社司」と署名し「神主」を使用していない。次いで延慶元年の関東御教書以降は宛名がそれまでの神主から国造に変更されている。文保二年一一月一四日出雲孝時去渡状(千家、大社355)は泰孝置文と矛盾しており後に作成された偽文書である(『出雲鰐淵寺旧蔵・関係文書』ではこの文書を正しいかのように掲載しているが論外である)。前述のように、国造泰孝の死亡が迫った時点で、後室覚日が生んだ子(後の孝景)が国造になれる年齢に達していなかったため、前室が生んだ孝時を当座の国造とし、その後継者は孝時と孝景の子孫の間から選ぶとしたもので、孝時が「国造三郎」(偽作した側の意図は清孝のつもり)に所領を去り渡すことなど不可能である。国造家の分立問題との関係で一五世紀に作成されたものであろう。それはさておいて、元亨四年八月二七日に出雲孝時が舎弟出雲貞孝に大庭田尻内の田屋敷と揖屋庄内平岡谷の田を譲っている(平岡家文書)、大社362)が、その際の署名は「国造兼出雲孝時」であり、やはり神主を使用していない。この時期、国造孝時以外の人物が領家によって神主に補任されていたためだと思われる。領家は文保元年の兼嗣の死により子兼輔(後に通輔)に交替していたと思われる。通輔は正安二年正月に公卿となり正二位参議となったが、正中二年(一三二五)以降、公卿のリストから姿を消し、その動向は不明となる。その子兼藤(後に忠嗣と改名)はその時点で二九才であったので継承は可能であるが、公卿となったのは暦応三年(一三四〇)の事であった。領家の地位低下と大社造営の行き詰まりから国造が神主に返り咲いたのだろうか。

 

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