koewokiku(HPへ)

« 雑掌孝助と孝宗の合戦1 | トップページ | 北島幸孝について »

2020年10月19日 (月)

雑掌孝助と孝宗の合戦2

 すべては六郎貞孝(あかこまろ)が国造を相続できる年齢に達していなかったためである。とはいえ⑧建武三年七月には国造清孝と舎弟六郎貞孝が軍忠状(千家文書、大社420)を高貞に提出して證判を受けており、貞孝は相続可能な年齢間近であった。⑧の主体は清孝であるため、この文書は共有文書として保管され、明治初年に千家文書となったものである。暦応二年二月二七日には孝時の長子であった杵築弘乗坊から、父から預かっていた杵築大社旧記文書以下を清孝方に渡したとの報告を受けた高貞が、弘乗坊が分与されることになっていた所領を知行することは承知したと返事を出している(千家文書、大社429)。「杵築大社旧記文書」とは京都に送られていた裁判の証拠書類を除く文書で、国造家の分立後は共有文書となった。
 北島貞孝と千家孝宗の対立は当座の処置として守護代吉田厳覚が仲介して康永三年六月五日に和与状が結ばれたが、当座のものであり、幕府で裁判が行われた。貞和五年五月一四日に双方の提出書類に幕府奉行人が裏を封ずる旨を記した時点では、圧倒的に北島貞孝が有利であった。貞孝提出の②は母妙善が執筆したものとの主張を孝宗は認めざるを得ず、孝宗定提出の譲状については北島方となる佐草禅光が書いたものを保管していたと主張しても、謀書だとされ、孝宗が国造継承の火継の神事を行っていないとの貞孝の主張に対抗するため出した母妙善自筆の書状については、そんなものは存在しないと一蹴されている。実際に二通とも偽文書である。各文書の真偽は両者とも隠しようのないほどよく知っていた。孝宗が雑掌孝助と合戦に及んだ貞和二年の時点では「国造孝宗并舎弟貞孝等」(千家文書、大社460)や「一方国造貞孝」(北島家文書、大社461)と記されているように両者とも国造とされていたが、貞和四年六月七日に足利直冬が紀州凶徒退治のため発向するので祈祷を命じた「杵築大社国造宛」文書は北島家が保管し、観応元年一一月二一日に足利尊氏が高師泰を石見凶徒退治に派遣したことに伴い、祈祷を命じた文書は「杵築五郎」宛である。少なくともこの時点では北島方がかなり有利な立場にあったのは確実である。結論を急ぐが決着目前の状況を大きく変えたのは観応の擾乱の発生である。裁判が結審しなかったこととともに、長らく続いた反幕府方優位の状況でも北島方が優位であったゆえに、山名氏の幕府復帰によって京極氏が出雲守護となってしまった。同様な事は尼子氏の滅亡時にもあった。経久は両国造家に娘を嫁がせたが、男子が誕生したのは北島国造家であった(ただし父より先に死亡したため相続はしなかった)。毛利氏に対して北島国造は尼子氏方であったとの訴えが千家国造から出されたが、それは千家方も同じであった。
 当ブログは一方に肩入れする意図は全くなく、残された史料の声をきちんと聴くとどのような状況が明らかになるかを述べているのみである。国造家の分立に関する史料を後世に作成しているのは不利な立場にあった千家方である。一方、大社神主について、過去の研究者による国造が神主を独占していたとの理解は誤りで、それは後に国造家が作成した史料(廃棄された重要史料も多数あろう)を研究者が真に受けたためで、実態は大きく異なっていたことを明らかにしている。しいていえば批判は声を聴こうとしなかった過去の研究者に向けられている。中世後期の研究の質も前期と同様に低く「昔の名前で出ています」状態なのだが‥‥。

« 雑掌孝助と孝宗の合戦1 | トップページ | 北島幸孝について »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 雑掌孝助と孝宗の合戦1 | トップページ | 北島幸孝について »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ