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2020年10月 2日 (金)

橘木社と佐陀社

 過去にも述べたことがあるが再確認する。両者は康治二年八月一九日の太政官牒では安楽寿院の末社二ヶ所として一括して扱われている。橘木社は上総国二宮であり、佐陀社も二宮と呼ばれた事はないが、出雲国内の神社では一宮杵築大社に次ぐ存在であった。
 橘木社は保延六年に藤原通憲(信西)から安楽寿院に寄進され、翌永治元年に院司が派遣され立券しようとしたが、上総介小槻師経のもとで、在庁官人と隣接する庄園から異論が出され、立券は延期された。永暦元年二月には美福門院が故信西入道の娘蓮西を預所に補任している。問題は如何にして信西が上総国との関係を持ち得たかだが、長承元年一二月二五日の除目で、上総介、信濃守、肥後守が相博されている。上総介藤原親隆が信濃守に遷任し、信濃守藤原盛重が肥後守に遷任している。問題は肥後守から上総介に遷任した人物であるが、これを記した『中右記』はその部分が判読不能である。
 その直近に肥後守在任が確認できるのは高階泰重である。泰重は出雲守や近江守を務めた重仲の子である。系図では若狭守のみ記されているが、阿波守在任も確認できる。そして信西が重仲の娘との間に多くの子をなし、その一人澄憲の子恵敏も橘木社に権益を持っていること、嘉元四年時点の領家が泰重と藤原宗兼の娘(池禅尼の妹)の子で後白河院の寵臣であった高階泰経五代の末裔泰継であることから、泰重が肥後守から上総介に遷任したことは確実である。ただし、立券時には小槻師経が国守であったので、鳥羽院領といえども厳しい対応をした。
 佐陀社神主については、鎌倉初期の領家円雅が花山院(藤原)兼雅の子円雅であることはすでに述べた。この石井進氏の説に対して、保立道久氏が幕府と早くから連絡していた源雅頼の兄雅綱の孫円雅説を唱えられたが、ポイントは花山院忠宗・忠雅父子と鳥羽院の寵臣藤原家成の関係である。忠宗は藤原師実の孫であるが、顕仁(崇德)親王家侍所別当、中宮(璋子)権亮を経て、天治元年一一月には院号宣下を受けた待賢門院の別当となる一方で、保安四年正月には崇德天皇のもとで蔵人頭に補任され、大治四年一一月三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、大治六年一二月には中宮(忠通の娘聖子)権大夫となっている。
 忠宗が長承二年九月に四七才で死亡した時点で子(花山院)忠雅は一〇才、同母弟(中山)忠親は三才であったため、母の実家である藤原家保邸で育った。家保の子家成は忠雅より一七才年上で、その娘と忠雅との間に生まれたのが兼雅であった。佐陀社は家成を領家として寄進・立券され、家成娘、兼雅をへて円雅に譲られたと思われる。橘木社が寄進された保延六年時点の出雲守は藤原光隆で、父清隆が知行国主であった。清隆は大治五年から保延三年初めまで越後守であった。長承二年七月末には中御門忠宗が小泉庄について国司免判を求め、大殿忠実にも協力を依頼しているが、その甲斐あって八月末には国司庁宣を得ている。大社造営が開始されていたが、待賢門院庁(保延元年の東大寺文書では署判者として「左京大夫兼右馬頭摂津守藤原朝臣」がみえるが、これは「左京大夫兼左馬頭播磨守」の誤りである。)と鳥羽院庁でともに別当を務めていた家成による寄進・立券を容認した可能性が高い。
   家成を鳥羽院と美福門院との関係のみでとらえるのは、保延元年の待賢門院牒の署判者としてみえること、崇德天皇の御願寺成勝寺に所領を寄進していること、そして嫡子隆季の動向からして誤りである。

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