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2020年10月11日 (日)

院政期出雲国政治史補足2

 德大寺家は頼朝が平家を滅ぼすまでは不遇であった。それが文治元年一二月に頼朝の推挙した議奏公卿に含まれたことで、急速に昇進した(頼朝の同母妹坊門姫を妻とした一条能保も同様であった)。そして自らの知行国美作国の目代に頼朝の側近となった梶原氏を起用した。これについて、梶原氏と德大寺氏の関係が背景となったとの説があるが、誤りで、頼朝と実定の関係により梶原氏が起用されたものである。頼朝は崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局を御親戚と呼び、崇德院の最側近日野資憲の子親光を御外戚と呼んでいるように、待賢門院・崇德院流に属していた。角田文衛氏は「御親戚」から兵衛佐局が頼朝の母の姉妹(熱田大宮司季範の娘)との系図を作成してしまった(『王朝の明暗』)が、飛躍しすぎた説である。明確な記載はないが、頼朝の母方、父方の両方について検討する必要がある。角田流でいけば、親光(母は不明。一時平家の圧迫をうけ高麗にわたるが、頼朝が家臣を派遣して都、さらには鎌倉に迎えた)の母まで季範の娘となってしまう。にもかかわらず、本郷恵子(つれあいの和人氏より高い評価を受けている)氏まで角田説を引用し、「熱田大宮司家にとって信縁=法勝寺執行、兵衛佐局の実父は中央政界や内廷に接近するための足場として重要な意味を持った可能性がある」(『怪しいものたちの中世』)と記す有様で、こんな事をしていると、源為義が義親の子とする説や崇德が白河の子とする説のように根拠なき誤りが通説になってしまう。角田氏は外に思いつかないから苦しまぎれに述べただけである。
 話を戻すと、佐伯氏は能盛について「一族は歴代西国国守を輩出しており、兄弟の信盛が従五位下石見守、兼盛が周防守、伯父成景が因幡守で、出雲の近国の国守を務めた官歴の持ち主たちであるので、能盛の任出雲守もこの地域と一族との縁故が背景にあったかもしれない」と無意味な事を述べている。『尊卑分脈』にはそのような記載がないわけではないが、史料批判が必要である。信盛の系図上の位置づけは系図により異なり、能盛の兄弟であるか、従兄弟であるかは決めがたい。兼盛は平盛子が死亡した際に、後白河院が摂関家領を後院領として支配しその預に補任した人物であるが、その直後の平氏のクーデターで手首を切られている。『玉葉』には前大舎人頭兼盛が白川殿(盛子の事)倉預に補任されたと記され、兼盛は周防守に補任されたことはない。これは能盛が出雲守から周防守(これも後白河院分国)に遷任したことを誤って記したものである。この能盛の系図には混乱が多々みられ、検討なしに利用できない。藤原成景が因幡守に補任されたのも事実ではない。当該期の国守・知行国主はすべて確認でき、成景が入る隙間はないのである。
 結局のところ、佐伯氏は院政期について論じる十分な準備もないまま、思いつきを述べてしまったのである。当方は二年前から待賢門院分国を明らかにしたいが、研究している人もいないので、自ら日記や関係文書を読み始めたことによって、以上の点を述べることができるようになった。戦国期が専門という人が多いが、専門といっても二年程度学べば達するレベルである。自己の専門にこだわっても仕方が無い。新たな専門分野を作るべきである。

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