koewokiku(HPへ)

« 源義朝の政治的立場2 | トップページ | 平親宗について1 »

2020年10月24日 (土)

源義朝の政治的立場3

 兵衛佐局が崇德天皇に仕え、一一四〇年に重仁を産むと、その養父である源行宗と播磨守忠隆がサポートにあたるようになったことは前述の通りである。大蔵卿行宗は一一三九年正月の除目で、崇德天皇が鳥羽院のもとへ行幸した賞として待賢門院御給で七六才で従三位に序せられた。兵衛佐局が崇德の寵愛を受け始めたことが背景であろう。翌一一四〇年九月二日(月日は旧暦)に重仁が誕生し、崇德の退任まぎわに内親王となり、一一五〇年には元服して三品に叙せられた。
 行宗の子雅重は一一三四年正月に従五位上に叙せられ、一一三五年三月に鳥羽院と待賢門院が法金剛院東新造御所(周防守憲方が造進)に渡御した際に、源有賢子(宗賢ヵ)とともに行宗朝臣子が従っている。後者が雅重で、前者に比定できる宗賢とともに女院に近侍していた。宗賢は女院出家時には甲斐守であったにもかかわらず自らも出家した。一一四〇年三月には行宗が大蔵卿を辞して子雅重を紀伊守に申任している。まさに重仁をサポートするためである。一一四三年閏二月に行宗は出家し、一二月二四日には八〇才で死没している。その後は兵衛佐局は参議藤原教長(行宗の兄季宗の娘が教長の父忠教の室となっているが、教長の母は前述のように源俊明の娘)の養女となった。教長は保元の乱時に頼長父子を除けば公卿では唯一崇德院のもとに参上した。
 一一四四年三月一〇日には雅重が父行宗の喪があけて紀伊守に復帰している。四月一六日の時点では斎院(行宗娘と輔仁親王間に生まれた怡子女王)長官でもあった。一一五一年八月一〇日の春日祭には新院(崇德)殿上人として雅重がみえる。翌一一五二年正月には斎院長官労として雅重が正五位下に叙せられている。その後は史料が確認できす死亡した可能性がある。一一五三年三月二八日に義朝と範忠が叙爵していたように、近衛天皇の後継者誕生の可能性は失われ、崇德院が鳥羽院の後継者となる可能性は大きくなっており、重仁の外戚である雅重の昇進のチャンスは大きくなったはずである。系図からは、雅重と重仁の乳母夫となった忠盛の娘との間に基宗が生まれていることと、その兄弟基能に「斎院長官」との尻付がある程度である。その忠盛も一一五三年一月一五日に五三才で死亡している。それはともあれ、三月二八日時点では崇德院をめぐる環境は悪くはなかった。保元の乱は異母弟頼長の失脚のチャンスをうかがっていた忠通の台本に、鳥羽院の死を契機に信西入道が書き加え、脚色したことで、想像できなかった事態となった。頼長と崇德院が結び付いたのも、その事態急変によりもたらされたものであった。
 「源義朝の政治的立場」の記事のみを読むと、義朝が崇德院方にならなかったのは何故かという疑問を持つ人があるかもしれないが、本来の崇德院支持勢力では藤原教長以外は、出家・中立か後白河院方との二つの選択肢しかなかったのである。

 

« 源義朝の政治的立場2 | トップページ | 平親宗について1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 源義朝の政治的立場2 | トップページ | 平親宗について1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ