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2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛5

 その後、配流先の隠岐から戻って天皇に復位した後醍醐天皇が綸旨により元弘三年(一三三三)一二月一〇日に大社の本所号を廃止して国造に大社領を一円管領させた(千家、大社384)事で、領家の立場は失われたが、これは後醍醐が国造からの訴えを受けて認めた結果であった。建武政権の崩壊とともに、幕府と北朝のもとで本所号が復活すると、領家雑掌と国造孝時の間で再び裁判が開始された(建武三年国造孝時申状土代、貞享五年八月日出雲自清覚書所収、大社424)。その中で国造孝時は神主職については正和三年八月二七日付の関東下知状により「御成敗訖」として訴えが認められたかのように主張しているが、実際には「以社領捧神主知行支証」とあり、神主が社領を知行している支証の提出を求められたもので、「両方備進証状から幕府が口入した証拠は分明である」というものも勝訴・敗訴とは無関係である。前述のように同年七月一六日には領家兼嗣が三崎社検校職を補任している。
 建武三年の裁判は領家雑掌孝助による越訴という形をとっているが、これは正和三年の幕府の裁定に対する越訴ではなく、後醍醐天皇による本所号停止に対する越訴であった。孝助は越訴状の中で、大社神主職が領家進止であることが明白であるのに、孝時が幕府の御家人であると号して領家に敵対し、奸訴を致すので幕府での裁判となったこと、孝時が提出した支証は謀書で、進止権を持つ領家に敵対したことを承伏したにもかかわらず、奉行人が孝時に肩入れして正しくない御下知を行ったと批判している。これは孝時が勝訴したとの意味でなく、領家が勝訴すべきなのに奉行人が曖昧な形にして、大社領を神主が知行してきた支証の提出を求めたことを指している。
 領家雑掌孝助は孝時が幕府の御下知に違背し、本所に敵対している証拠として、建久三年に領家が資忠を惣検校に補任し、それが頼朝下文二通によって安堵されていることをあげた。提出されたのは建久二年七月二出雲国在庁官人等が解状を提出して国造孝房を支持したにもかかわらず、領家が資忠を惣検校に再任した際の文書で、国造側は義理と云い、文章と云い不審だとして、過去の裁判で雑掌が一々雌伏したと述べるが、いずれも正しい文書であり、国造側の主張は事実とは考えられない。
 この文を書きながら痛感するのは中世前期分の大社町史史料編並びに通史編の改定版がでないと、歴史の虚像が再生産されかねないことである。北島家文書の新出分の公開を契機に改定版の出版が実現することを期待しつつ、ここで筆をおく。

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