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2020年10月17日 (土)

美福門院姉の夫

 久しぶりに自室でさがしていた角田文衛氏『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書版、1985)に遭遇したので、気になる箇所を確認している。その一つが藤原長実の後家が源師時に語った『長秋記』の記事である。長実の子達が冷遇されたことを述べていたが、得子の姉である「故金吾妻」についてである。氏は「故佐〔左の誤植ないしは不用か〕衛門佐某の後家」と記している。そこで「金吾」について再度確認すると「執金吾」の略との事で、衛門府の唐名とある。実例として日蓮の有力檀越四条中務三郎左衛門尉頼基が「四条金吾」と呼ばれたことと、左衛門督小早川秀秋が「金吾中納言」と呼ばれたことが挙げられている。一〇世紀半ばに紀貫之が編んだ『新撰和歌』序には古今集について「伝勅者、執金吾藤納言」とあり、天皇の命令を執金吾納言が伝えたことがわかる。久安元年一〇月四日に出雲国に下された官宣旨には「権大納言雅定宣、奉 勅」との表現があるが、このような立場の人であろう。
 源雅定は村上源氏雅実の二男で中院(久我)家の二代目の人物である。ということで、古今集の執金吾納言は左衛門督を兼任していた人物であろう。以上により「故金吾」とは当方が比定した故左衛門督德大寺通季で問題はなく、角田氏の比定=左衛門佐某は誤りである。
 源雅定は兄顕通が四二才で死亡し、嫡子雅通は五才にすぎなかったため家を継承し、甥の雅通を養子にしている。右衛門督、左衛門督をへて保延六年には藤原頼長の後任として権大納言とともに左大将を兼任していた。この時の左大将の人事をめぐっては、閑院流の三条実行(二男)、德大寺実能(五男)も左大将補任を希望しており、崇德天皇の判断に時間がかかる中、鳥羽院が天皇に直談判して、自らの推薦する雅定を左大将としたいわくつきの人事であった。崇德天皇の退位は、躰仁内親王の誕生とともに、二〇才をこえ自らの判断が可能となった崇德と父鳥羽の衝突を回避するためのものでもあった。待賢門院の同母兄で最年長であったのは三男德大寺通季であり、異母兄弟を含めて昇進が最も早かったが、通季と異母兄で長男であった実隆が死亡したため、待賢門院庁の発給文書では一六才年長の二男実行、五男実能の順に署判を加えていたが、両者の関係は微妙であった。

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