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2020年10月20日 (火)

北島幸孝について

 応永一〇年七月一〇日に北島資孝・幸孝父子が世継の時支え申す事あるまじく候という内容の書違(契約)状を出している。当然、相手であろう千家国造も何らかの約束をしたはずであるが、それは残されていない。これについて井上寛司氏は康永三年の和与状による千家優位という事実とは逆の説に基づき解釈されたため、多くの問題を残した。
 北島幸孝が千家直国の娘を室として迎えたことを前提としてこの契約が結ばれた。両家間の婚姻関係を前提としないと、この内容は理解できない。千家直国の孫として生まれた北島高孝は千家国造を継承することも不可能ではない。実際に、直国は晩年の子に譲った所領について、孫である高国が介入した場合は、同じ孫である北島高孝に付くように置文に記している。
 応永二四年一二月一三日に北島資孝がゆやとの(ゆや六郎、三郎六郎)に国造・神主職と関係文書を譲っているが、実際に国造となるのは所定の年齢に達してからである。文明一七年三月一三日国造北島利孝契約状案に同様のことが書かれている。高孝が一族の塩太郎に国造職と神領等を譲ったが、一五才之内は社職大法を勤めることができないので、代わって利孝が火継を行い、国造職を預かったこと、自らの子孫次郎・三郎の子孫が、成人後(前任の利孝が死亡しないと国造は継承出来ず)の塩太郎の相続に異論を申さないことを約束している。所定の年齢とは一五之外(一五才か一六才かは決め手に欠ける)であった。
 以上を踏まえれば、資孝から孫ゆや六郎への譲与は、子幸孝に他の子が生まれた場合でも国造を相続できることを保障したものである。過去に応永二七年正月二八日千家直国置文に言及したが、この時点では直国が国造で、その死亡時に孫高国が国造となる。その後のことを心配した直国が高国を牽制する置文を作成した。
 北島家譜に、幸孝が応永二八年から八年間国造を勤めたとするのは事実である。井上氏は幸孝が国造ではないとの前提で文書を解釈されたが、それは誤りであった。応永三一年七月一〇日国造北島幸孝・国造千家高国社頭向定の問題点は北島国造幸孝ではなく、翌応永三二年五月一七日の時点で直国がなお健在であったことである。
 応永三二年一二月二五日足利義持御判御教書により国造直国の本領本職が安堵されている。直国の最晩年(三五年に高国に譲与)に、将軍在位三二年目の義持が安堵した背景は何であろうか。日御崎社検校をめぐる問題もあったし、大社本家柳原宮が山科家を訴えた問題もあったが、千家方のみに残っていることから、千家国造直国が幕府に働きかけて認められたものであろう。永享二年には塩穴貞吉が武志郷・鳥屋郷に関する裁判を起こしていた。塩穴氏は両郷の開発を中心的に担った在庁官人の末裔であろう。また「松安隆とは誰か?」で述べたように、領家松殿氏の支配が有名無実化する中で、安隆が楠葉方に寄沙汰を行って、一旦は認められているように、大社の権益をめぐる対立も起こっていた。

 

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