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2020年10月24日 (土)

源義朝の政治的立場2

 調べていると予期せぬ情報に遭遇し、それが過去にであったが意味がわからなかった情報を生き返らせることがままある。今回は、建春門院滋子がスタートであったが、次々と範囲は広がっていく。滋子の異母姉である時子、藤原親隆室、異母兄時忠を産んだ女性は藤原顕憲との間に能円を産んだ。能円の娘が後鳥羽院との間に土御門院を産んだ在子であった。能円には一条能保の室(ここでは妾との区別はしない)となり、土御門院の乳母となった娘もいた。さらに、藤原忠季の室となった娘があった。
 この二人の娘の名をみて思い出したのが、元暦元年六月五日の除目で讃岐守藤原忠季が国守の任を止められ、その後任に能保が補任されたとする『公卿補任』の記事である。単純に交替したのならばこのような表現にはならないはずだと思っていたら、能円の娘を室とする能保と忠季がいることに気付かされた。そこで忠季を調べると、中山忠親と藤原光房(為隆の子で経房の父)の娘の間に生まれ、同母兄兼宗が嫡子であった。一一九六年に公卿への登竜門である頭中将在任中に病死している。年齢は不詳であるが、そのことを聞いた九条兼実は優れた人材が失われたことを悲しんでいる。あの辛口の兼実であるので有能であったのだろう。兄兼宗が一一六三年生であり、忠季は死亡時に三〇才前後であろうか。兼宗も三一才で蔵人頭に補任されている。
 『古今著聞集』については、最近、本郷恵子氏の著作で認識を新たにしていたが、その中に、忠季が督典侍(能円娘)のもとに通いつめ、想いを遂げて生まれたのが親平であることを記した記事があった。また、藤原基隆が周防国を知行していた際のエピソードもあったが、そこに記された保安三年は基隆の嫡子忠隆の同母弟経隆が周防守であり、記事が記す年号に誤りはなかった。さらに、德大寺の大臣が熊野詣に行った際に知行国である讃岐国から多数の人夫を調達したが、多すぎたとして途中で返すことにしたところ、ある人夫がせっかく熊野詣に同行できることを喜んでいたので、連れて行くことを求めたという。少しの食料ばかりを与えてもらうだけでいいと行ったため、連れて行ったところ、その人夫は参詣できたことを喜んだと。
 問題は、讃岐国が德大寺大臣の知行国となったのがいつかである。德大寺実能-公能-実定はいずれも大臣になっているが、可能性があるのは、元暦元年六月五日に一条能保が讃岐守に補任された際の国主が実定であったことであろうか。能保の母は実定の姉妹(同母かどうかは不明)である。能保は父通重が早世したために昇進は遅れており、頼朝の同母妹坊門姫との婚姻はともに待賢門院・崇德流に属していた同士のものであった。能保は七歳で上西門院御給で叙爵し、保元二年に一一歳で丹波守となったが、一年で交替すると、それ以降は德大寺公能の娘(実定の一才上の同母姉)で、頼長の養女として近衛天皇に入内した多子のもとで大皇太后宮権亮をながらく勤めていた(一一六七年末~一一八四)。それが讃岐守に補任された。前任の忠季も一〇代後半であった思われ、父忠親が国主であった可能性が高い。国守が能保に交替すると同時に実定が知行国主となったのだろう。次いで文治二年六月二八日には前述のように源隆保が讃岐守となり、能保が国主に昇格した。
 『公卿補任』には能保は讃岐守に補任された直後に大皇太后宮権亮を辞任して長経に譲ったとの記事もある。長経といえば八条院の近臣として丹後守をつとめた人物がいるが、こちらはこの前後を通じて皇后宮(後白河と季成娘との間に生まれた後の殷富門院)権大進の地位に変化はない。藤原光隆の母の甥である雅長の子長経もいるが、「修理大夫」「佐渡守」のみある。佐渡守補任の時期は不明だが、能保が大皇太后宮権亮を辞任する代わりに佐渡守に補任されたのであろうか。すぐ新たなポストが得られる人物が、現職を辞任して関係者がポストに補任されるようにすることはよくあることである。
 盛実は頼長の外祖父である事で知られるが、藤原家範の室、家隆の室となった娘もいた。前者が生んだ娘が時信室となり、美福門院女房となったが、後者は待賢門院女房(備中ヵ)となり、その娘が同じく待賢門院女房に仕える中で平忠盛の子教盛を産んでいる。次いで教盛が日野資憲の娘を正室にしたのは前述のとおり。忠実の弟である家隆には皇嘉門院女房となった娘もいた。同じく忠実の弟家政の嫡子が雅教であり孫が雅長であった。家政の娘家子は清隆の室となり、光隆を産んだが、後に近衛天皇の乳母となった。
補足:能保が大皇太后宮権亮を譲ったのは坊門信清の弟長経であろう。系図には「大皇太后宮亮」とあり、後に権亮から昇進したのであろうか。その子が隆保、隆経と、一条能保や源隆保との関係をうかがわせている。兄信清の娘信子が源実朝の室となり、別の娘は九条良輔の室となっている。九条家の家司として散見する「長経」と同一人物であろう。

 

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