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2020年10月12日 (月)

藤原教長と崇德院1

 前回の記事に対して、なぜ兵衛佐局が頼朝の御親戚と呼ばれたのかとの疑問は解消しないとの声が聞こえるかもしれないので、さらに調べてみた。過去に書いた記事は忘れがちであるが、その関連情報が確認できた。
 寿永三年四月一五日に崇德院と頼長の除霊のための施設(後の粟田宮)が建てられ、遷宮が行われた(『吉記』)。卜部兼友が社司に、その他僧官が補任された。兼友の曾祖父兼国と待賢門院に登用された兼仲の曾祖父兼親が兄弟である。兼友の子孫が粟田宮俗別当を継承していく。『吉記』には故入道教長が安元三年頃から天下擾乱を鎮めるため両人の除霊を主張し、朝廷に働きかけたことが記されている。その際の蔵人頭が藤原光能であった。また教長について「彼院御寵女兵衛佐猶子也」と注記が加えられている。
 崇德院以外に両者をつなぐものを確認すると、教長は忠教と源俊明の娘の間に生まれている。待賢門院庁と鳥羽院庁の両方の筆頭別当となった能俊の姉妹が教長の母であった。教長誕生時に忠教は三四才、能俊は四〇才であり、妹となる。忠教の正室は源季宗の娘で、その間に生まれた忠基が忠教の嫡子であったが、季宗は兵衛佐局を養女とした行宗と後三条との間に実仁・輔仁両親王を産んだ基子の同母兄であった。そして兵衛佐局の父信縁(藤原季実の子)と行宗の正室(藤原季仲の娘)は従姉妹であった。行宗が死亡した時点で教長は三五才で参議であった。兵衛佐局はその四年前に重仁を産んでおり、教長より一〇才程度年下であった。死亡した行宗に代わって兵衛佐局を猶子としたのが教長であった。
  『台記』の記事からすると、教長は大変な教養人であり、出世・権力欲は薄い人物であった。教長の父忠教は中宮(聖子)大夫をつとめたが、その子教智は崇德御願寺成勝寺に摂津国難波庄を寄進している。一方、崇德院には源師経の娘との間に生まれた子覚恵がいたが、熱田大宮司季範の娘と師経との間に生まれた隆保が、讃岐国知行国主一条能保のもとで国守に起用されている。頼朝の母と覚恵(1151-84)を産んだ崇德院三河権守局の母(師経の娘)は姉妹で、頼朝と隆保・三河権守局は従兄弟であろう。頼朝が兵衛佐局を御親類と呼んだ直接的理由は崇德院の子を産んだ女性との意味と理解できよう。前述のように能保と隆保はともに源俊隆の子隆暁の養子となっていた。
 隆暁は仁和寺寛暁(堀河天皇の子)のもとで出家し、東寺二長者になり、元久三年に七二才で死亡している。養和元年の飢饉の記事であろうが、『方丈記』には仁和寺の隆暁法印が多数の人々が餓死するのを悲しんで、額に「阿」字を書いて縁を結ばせようとした。人数を知ろうとして京の四月と五月分を合計したら四万二千三〇〇余りとなったとして、長明は崇德天皇の長承年間にもこのようなことがあったと結んでいる。そして仁和寺の隆暁のもとに弟子入りしたのが頼朝の子貞暁(大江景遠が乳母夫となった)であった。当初は父の義弟一条能保に付きそわれて入室し、「能寛」と名乗っていた。頼家の子で叔父実朝を暗殺した公暁は上洛して園城寺の公胤の弟子として入室し、異母叔父貞暁の受法の弟子となった。以上の点も覚恵の母は隆保の同母姉であることを示している。

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