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2020年10月 6日 (火)

島根県宗教法人名簿から

 然阿上人が拠点とした三隅の寺院とはどこだろうかと思い、宗教法人名簿(二〇一九年末現在)で確認した。この名簿の存在を認識したのは、県庁総務課で作成を担当した職員を通じてである。
 然阿の諱=良忠をその名称に付けた浄土宗寺院が浜田市三隅町向野田にあるが、ネット上の情報は名称と所在地程度である。一方、鎌倉光明寺のHPには「記主良忠上人について」というその生涯を記した記事が掲載されている。『然阿上人伝』をわかりやすく述べてある。光明寺は浄土宗の内、西山浄土宗の総本山である。
 そもそも浄土宗については開祖法然以外は知識がなく、浄土宗側から高校日本史教科書の記述について、あたかも浄土真宗の方がすぐれた教えだとの先入観を抱かせないように配慮を求めた記事をみて、確かにそうだと思った。県内に気になる浄土宗寺院があったが、その程度であった。浄土宗は鎌倉時代には大別して四流に分かれたという(この外にも小グループあり)が、中世末まで生き残ったのは西山義と鎮西義であるという。このあたりは孫引きであるのでこのような曖昧な記述しかできない。
 良忠は三四才で石見に帰ると、多陀寺に籠もって修行したとあるが、多陀寺は真言宗寺院に分類される。勤務校の畳ヶ浦への遠足の折にそのそばを通り、名前だけは承知していた。五年の修行後、九州に下向し、出身地で布教にあたっていた鎮西義の祖弁長の教えを受け、その後継者となった。光明寺のHPでは初代法然、二代弁長(聖行坊)、三代良忠(然阿)としている。その後、再び石見に帰り、中国地方での布教を一〇年務めた後に関東への布教に着手し、鎌倉では光明寺の前身となる寺院に居住した。七八才の時には京都の門下の招請をうけて上洛し、八八才で鎌倉に戻って八九才で入滅した。ということで、現在の良忠寺が石見における拠点であった。三隅町湊浦にも浄土宗極楽寺があるが、情報がない。とりあえずは社寺明細帳で確認したい。
 現在の全国の神社数は八万以上とも八万八千ともいわれ、寺院数の倍だという。それに対して島根県は両者がほぼ同じで、神道系が一二三三、仏教系が一二九三である。その他、キリスト教系が四四、諸教系が一三四である。不勉強だが、近世末から明治にかけて教派神道とされた中で天理教のみが諸教系で、金光教、黒住教、大本は神道系である。以前、広瀬町山佐で横穴墓を発掘したことがあるが、工事中に発見され、とりあえず安来から大本の関係者を呼んで儀式を行った上で破壊しようとしたら、県の大森埋蔵文化財調査員の知るところとなり発掘を行った。人骨の保存状態が大変良く、鳥取大学医学部が持ち帰った。ところが、現在の名簿には安来には大本は存在しない。大本は戦前の政府から弾圧を受け、これをモチーフとしたのが高橋和巳『邪宗門』であり、天皇の戦争責任を追及するなど、ありえなかった戦後史を模索した。
 神道系、仏教系とも最多は出雲市で、二位は神道系では松江市であるが、仏教系では大田市がわずかに松江市を上回っている。人口比では大田市における寺院の多さが目立つが、これも石見銀山繁栄の残滓であろうか。仏教系では「真宗」(多くのグループに分かれている)が最多で、曹洞宗がこれに続く。三位以下は臨済宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗の順となるが、浄土宗寺院の最多も大田市で、出雲市と松江市が続いている。現在は過疎化の進行で、寺社とも急速に減少している。明治における神社の統合もあり、それ以前の近世における寺社の所在地について確認して地図上におとしておくという作業の重要性を認識させられる。

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