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2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛1

 二〇〇三年と四年の論文で、国造と幕府のそれぞれが、惣検校職と神主職をどのように使っていたかを検討した。大社領の成立以来、補任権を持つ領家は惣検校職を使用するのが一般的であったが、承元二年(一二〇八)にその権限を分割して権検校職が新設されたことにともない、両者の関係が上下ではなく、横の関係であることを明確にするため、惣検校職ではなく神主職が使われる機会が増加した。偽文書を除けば「神主」の初見史料は『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)正月四日条に「出雲国大社神主資忠」とみえることである。ただし、文治二年(一一八六)に国造孝房に代えて資忠を補任した際には「総検校」とみえ、建久三年の二通の頼朝下文にも「惣検校」が使われており、建久元年の「神主」は、原史料には「惣検校」とあったものが吾妻鏡編纂の時点の呼称に変更された可能性が高い。出雲大社文書は寄進した本来の所蔵者名(北島ないしは千家と表記し、北島家文書、千家文書と区別、但し千家と千家文書は本来は両国造家共有文書である)で記す。家譜や後の編纂物にのみ残っているものは所蔵先を省略。
 一次史料としては承元四年に比定できる二月一四日右近中将源実朝書状(千家文書、大社326、大社町史では年次比定が間違っているものが多いので注意が必要。松江市史に収録されたものは修正されている)が初見である。官職からは松江市史の記すように建保四年が下限となるが内容からは承元四年一二月一九日領家御教書写(大社182)に先行するものと思われる。また建久二年一〇月に領家が孝綱を神主并本御領沙汰人職に補任した下文の写(千家写、大社170、発給者を頼朝とするのは誤り)があるが、嘉禄二年七月日領家下文(千家文書、大社205)で補任された出雲政孝を孝綱に書き換えて後に作成された偽文書である。
 論文では国造は惣検校を使うのが一般的であったのに対して、幕府は早い段階から神主を使用していたこと、ならびに国造が幕府と結んで領家からの独立を図る中で、神主を使うことが多くなったことを明らかにした。今回は、幕府の文書の宛所に国造宛と神主宛があることに注目し、その違いからその背景にある歴史的事実を明らかにしたい。自らも神主を使うことが多くなった国造であるが、一四世紀初め以降、「神主宛」ではなく「国造宛」と記した関東御教書が増えている。当方の研究により大社の研究環境は飛躍的に改善したはずなのに、その後も依然として「昔の名前で出ています」レベルに留まっている論文も存在する。

 

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