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2020年10月16日 (金)

北島家文書と千家文書1

 大社関係文書には、相互に関連する文書でありながら所蔵者が両国造家に分かれているものがある。分立前の年紀を持つ千家文書が本来は両国造家共有の文書であるので、以下では「共有文書」と記すが、北島家文書と共有文書の区分に理由があるはずである。応安三年八月二八日杵築大社神官等連署申状(千家文書)の中で「号貞孝所得文書」について述べている内容は、北島家が所蔵する文書の背景の一端に触れているが、なぜそれを北島家が入手したかが問題である。康永二年に領家との訴訟のため携行した文書を質入した孝景が、質から出して取り戻すことという和与状を清孝と結んでいるが、返されたのは北島貞孝に対してであった。同様に、孤峰覚明が清孝に与えた袈裟も北島方が保存してきた。同時に設けられた神宮寺が清孝の私的なものであるとの井上寛司氏の解釈には何の根拠も示されていないが、そうであるならば清孝から譲られたと号している孝宗方が所持しているはずである。実際には神宮寺は大社の公的なものとして北島国造が管理し、一七世紀半ば過ぎまで大社境内に存在したものである。前にも述べたように、雲樹寺にも杵築大明神が勧請されており、これまた公的なものであった。
 話を戻すと、貞応三年から文暦二年にかけての大社文書(明白な偽文書は除く)のうち、権検校真高に関するものは後に権検校職を継承・世襲した平岡家が所蔵している。これに対して①嘉禄二年七月出雲政孝を神主等に補任した領家袖判下文は共有文書で、②文暦二年閏六月八日領家袖判奉書(領家重隆が公卿でないため御教書を奉書に修正)と③同年九月日領家袖判預所下文は北島国造が所蔵している。承久の乱以前の文書であるが、④建暦三年八月二一日領家御教書(領家雅隆は公卿)、⑤建保二年八月日本家土御門院庁下文も北島国造が所蔵している。さらに、当該期以降の年紀を持つ偽文書であるが⑥嘉禎二年六月五日関東御教書も北島国造が所蔵している。
 ①は国造家が領家から神主に補任された文書では現存最古のものであるが、これにより神主を幕府以外=領家が補任していたことが明らかとなるので、領家との裁判には絶対提出してはいけないものである。一方、②は大社造営を神主に命じ、③は義孝が神主として造営沙汰を行うことを神官・百姓に伝え、義孝に従うことを命じている。きちんと分析すれば②の神主は③で種々奔走したとされる真高であり、③によって義孝が神主に返り咲いたものであるが、研究者の多くが気付かなかったように、ともかく神主が造営を行っていたことを主張できるものである。花押の主についても研究者が気付かなかったものであり、これが領家重隆のものであることはわかりにくい。実際に嘉禄年間の重隆の花押と少しうける感じが異なり、父雅隆の花押に似ている。④は領家雅隆の発給文書であるが、神主に所領の支配を認めたものであり、これまた研究者はこの神主が中原孝高であることに気付かなかった。⑤は領家ではなく本家が国造孝綱を神主・惣検校に補任したもので、領家が補任権をもつ体制下では効力はなかったと思われるが対領家の裁判では有効であった。
 ⑥は微妙な内容を持ち、国造孝綱の子経孝が神主職補任を幕府に求め認められたものである。なぜか正しいものとされてきたが、二〇〇四年の論文で示したように宛所がないこと、「鎌倉殿仰」という表現、「官職」+平という表現は、いずれも関東御教書ではありえないものである。さらに署判者のひとりとされている連署北条時房はこの文書が発給される3ヵ月前に修理権太夫に補任されており、この文書が後世に作成された偽文書であることは明白である。微妙な内容とは、幕府が神主を補任できる証拠となる一方で、国造職が孝綱の後は弟政孝が継承し、次いで政孝の子義孝が国造となっているのに対して、孝綱の子経孝が神主に補任されていることで、③で義孝が領家から神主に補任されたことと矛盾している。⑥は国造職をめぐり政孝系と対立する孝綱系の人々が作成した偽文書でありながら、幕府が神主を補任できた証拠として残されたものである。

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