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2020年10月21日 (水)

大社領本家柳原宮

 大社文書には本家柳原宮関係の文書が残っている。その内容の正確な理解が求められる。
 至徳元年八月一〇日後円融院院宣(千家)では、大社領十二郷について、違乱の社家を退け、一円本所雑掌に沙汰付けるべき事が認められている。柳原宮は永嘉門院の跡を継承する存在であるが、領家雑掌に対して、本家も雑掌を補任して大社領の支配にあたっていたことがわかる。問題はここでいう「社家」の理解である。出雲大社造営をめぐって、院宣で「国衙社家相共に」行えとの命令がしばしば出されたが、従来の研究では社家=国造と理解しているが、そうではなく社家とは領家のことである。国衙は目代が、社家では神主が協力して造営にあたったのである。大社領でも領家が本所であった。その体制が変更されたのが、弘安六年に本家安嘉門院が死亡して、その跡を亀山院が強引に相続したことであった。亀山院は領家松殿氏にかえて自らの関係者を領家に補任した。この結果、本家亀山院が本所としての地位を獲得したのである。
 亀山院の死後、領家松殿氏は復活したが、本家となった永嘉門院との関係はもはや従来どおりというわけにはいかない。ということで、後円融院院宣でいうところの社家とは領家の事であり、大社領が本所(本家)一円領となった。これに伴い、至徳二年八月二五日足利義満安堵御教書写(千家文書写)が残されているが、応永三二年一二月二五日の義持袖判御教書と花押の位置を除けば同一であり、これに基づき後に作成された可能性が高い。
 明徳元年二月五日には後小松天皇綸旨により、承明門院遺領である大社領十二郷と浦等について柳原宮の相伝が認められ、翌二年にも同様の綸旨が出されている。その一方で、明徳元年正月一〇日には出雲国一宮である大社を構成する「日三崎」を大社国造が相計らうことを認めた綸旨も出されている。三崎社検校は国造からの独立を図ろうとするが、逆に国造により圧迫され、何度も起請文を提出させられていた。大社の権益についてさまざまなレベルでの対立が存在した。三崎社が日三崎と呼ばれるようになるのは。検校が天照大神との関係を根拠に大社とは独立した神社であったこと主張したからである。それに伴い御崎社側は「日御崎」の名前を自称するようになった。大社領の浦々と日御崎の境界も問題となったいた。明徳の乱の直後に入部した守護京極氏は大社国造家の苗字地である出東郡千家・北島を大社に寄付するとともに、朝山郷内粟津村に御崎社神田を設定している。この時点でも大社と御崎社の対立は解決せず、継続中であり、守護は御崎社の主張に理ありとしたが、あえて判断は下さず、守護代塩冶氏に対応を委ねている。応永八年の時点では守護京極氏も御崎検校の独立を認め、国造方からの妨げを止めるように守護代塩冶氏に命じ、応永十九年には守護京極高光が杵築御崎検校貞政の知行を安堵している。
 この間の本家柳原宮の動向は不明であったが、応永三〇年五月には山科家による所領の押領を訴えている。前の記事で、本家と領家の間で大社領が分割されたとの説を示したが訂正する。領家の支配が否定され(後に一旦復活した松安隆跡)、本家一円支配が認められる最中に、本家の権益を継承すると号して山科家が登場し、将軍義満の近習であることを背景に、大社領の半分の支配を認められたのである。これに対して柳原宮側は朝廷に訴え、何度かその支配を認めた綸旨を得ているが、実効性はなく、山科家の支配は戦国期まで続いた。以上のように訂正する。なお、柳原宮が一四世紀後半には土御門宮と呼ばれ、来海庄内に権益を有していたことがあったことは前述の通りである。

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