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2020年10月31日 (土)

仁平三年四月六日の除目1

 この直前の三月二八日の除目を藤原清隆が主導したのは前述のとおりで、付け加えると、刑部卿に補任された藤原雅教は、清隆の正室で嫡子光隆の母家子の兄弟である。雅教が光隆の年齢差一六才からして、家子が同母姉であった可能性が高い。その母は藤原顕隆の娘であったが、夫家政が死亡すると藤原俊忠に再嫁している。
 四月六日も臨時の小除目であるが、三月一三日に上野介藤原信盛が病気で死亡したことにともなうものであった。信盛は美福門院得子の兄顕盛の子であり、兄俊盛とともに女院分国隠岐から上野へ遷任していた。その後任に二六才の摂津守藤原重家を遷任させた。重家は得子の父長実の同母弟顕輔の嫡子で、摂関家との関係が深い人物であった。摂津守の前には父顕輔が国主である筑前国の国守に一七才で補任され、四年余り務めていたが、やはり美福門院の乳母夫である親忠と相博している。後任の摂津守には蔵人から藤原俊経を起用した。同時に女院分国若狭の国守を乳母夫親忠の病気・辞任に伴い越前国守である孫隆信(美福門院加賀の子)を遷任させ、その跡には女院の兄長輔の子実清を起用した。
 重家は摂関家との関係で位階を叙せられ、その知行国の国守に起用されているが、この前後は女院分国の国守の交替に連動して遷任している。女院死後の永暦二年正月の除目では若狭国守隆信と遷任しているが、その年の内に能登守に遷任した。一方、皇太后宮聖子、その母で忠通の妻である宗子、さらには皇嘉門院聖子、忠通の娘中宮育子の関係で叙位を重ね、嘉応二年正月には従三位で公卿に列し、嘉応三年一二月には知行国主藤原基房(忠通の子)のもとで太宰大弐をつとめている。以前、重家が国守を務めた国を美福門院分国としたのは誤りであり、訂正する。美福門院得子の従兄弟ということで、連動して動かしやすかったのだろう。

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