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2020年10月 8日 (木)

長門国向津奥庄について2

 向津奥庄は顕隆により白河院に寄進されたが、その養女璋子が鳥羽天皇に入内し、中宮となる中、璋子(待賢門院)に譲られていたと思われる。信頼が向奥津庄を押倒したのはそれが崇德院領であったとの主張に基づくが、実際には上西門院統子による継承が認められていたため、昌雲は上西門院に訴え、庄園の復活が実現した。ちなみに、長門国は久安五年に藤原家頼が国守に任命されてから、平治の乱までは、忠隆の子が国守となっていた。それが乱後は信頼の没落により藤原親雅が国守となった。木村氏が二度目の庄園の停廃を行った長門守が藤原隆輔とされるのは単純なミスであろう。親雅の父親隆は顕隆の異母弟で、摂関家家司を務める一方で待賢門院判官代であったが、待賢門院の死後は鳥羽院・美福門院との関係を強めおり、平治の乱後は美福門院庁の別当として、女院庁下文の署判者としてみえる。親隆が一才違いの同母兄朝隆の死亡により、その子朝雅を養子として親雅と改名させて出雲守とし、長門国とともに出雲国の知行国主となった事はすでに述べた通りである。
 こうした状況の中、領家昌雲は向津奥庄を上西門院の一才下の同母弟後白河院が新たに勧請した新日吉神社に再寄進することによって、国衙の介入を防ごうとしたのだろう。領家の意思により本家の移動が行われることは珍しくなく、且つ後白河院は上西門院の同母弟であった。こうして向津奥庄の体制は安定したかにみえたが、治承・寿永の乱で庄官であった豊西郡司広元が平家方となったため、没官領となった向奥津庄には東国御家人大江景国が地頭に補任された。景国は近江国香庄を相伝してきた大江通国の猶子となった藤原景遠の子で、源頼朝の子貞暁の扶持にあたり、乳母夫になったが、文治二年七月には向津奥庄における武士の狼藉を朝廷が幕府に訴え、頼朝も狼藉を停止させることを約束している。その後の状況は不明だが、建久八年に頼朝は向津奥庄地頭職を新日吉社に寄進し、新日吉社による一円支配となった。
 頼朝は崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局を御親戚と呼んだが、それは局との関係ではなく崇德との関係から呼んだものである。そのため頼朝は待賢門院・崇德院の旧領には配慮を加えている。出雲国では待賢門院御願寺円勝寺領長海庄について、領家から地頭員綱による押妨が訴えられると、幕府は員綱を解任して清廉な人物を地頭に起用するように出雲守護安達親長に命じていた。その後長海庄は本庄と新庄に分かれるが、新庄は向津奥庄と同様に領家德大寺氏による一円領となり、本庄は公家出身で将軍に祗候していた持明院基盛が地頭となった。
 以上のように、田村氏と木村氏の分析は表面的部分に留まっていたが、その背景を調べ、考察することで、より多くの注目すべき情報が得られることがわかる。田村氏と木村氏のレベルに留まっている研究が多いのが課題である。

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