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2020年10月

2020年10月31日 (土)

仁平三年四月六日の除目2

 下野守は四年前の三月一八日に藤原宗国が補任されていた。この後任を検討する中で義朝が浮上したが、その一方で一三日に上野介信盛も死亡した。義朝は上野介に補任される可能性はあったのだろうか。下野国は摂関家の関係者が前任で、上野国は美福門院分国であった。同日に刑部卿に補任された雅教は仁平二年一二月三〇日に藤原忠弘(公卿補任・山槐記。兵範記は忠弘とする)を申任ずるため駿河守を辞任し、三月五日には美福門院御給で従四位下に叙せられている。翌年正月に従四位上に叙せられたのも女院給であった。雅教の同母姉であろう家子は近衛天皇の乳母であった。
 忠弘は雅教の関係者であろうが系譜上の位置付は不明。親忠の曾孫に忠弘がいるのみ(『分脈』)。と思ったら、親忠の子親弘が相模守に補任された際に「元上総介」とあったのを思い出した。当時の上総介は、安楽寿院領橘社の立券を妨げた小槻師経-藤原季兼(呈子の中宮亮で、季行の同母兄)-源資賢であり、他人の入り込む隙間もない。親弘が相模守に補任されたのが仁平二年正月二八日、信盛が隠岐守から上野介に遷任したのが二月九日である。親弘は美福門院得子が叡子内親王を産んだ保延元年一二月二五日に文章生から民部丞に補任されている。次いで天養二年正月の除目で上野介に補任され、二期八年務めた後に相模守に遷任したと思われる。
 忠弘は親弘の最初の名前かとも思ったが、相模守在任中と重なるので、親弘の兄弟とみるのが妥当であろうか。美福門院御給で叙されてきた雅教が美福門院乳母夫親忠の子と思われる忠弘に駿河守を譲った形である。まさにその対価が従四位上叙任であり、刑部卿補任であった。前任は誰かと思ったら、一月一三日に平忠盛が刑部卿を辞任し、一五日に五八才で死亡していた。忠盛は仁平二年二月二日に播磨守から刑部卿に転任している。九年前に正四位上に叙せられており公卿目前であった。これに対して雅教は従四位上で四三才であり、優遇人事であった。
  当方は隠岐守信盛が上野介に遷任したのが、ともに美福門院の分国ではなかったかを確認するため、検討を続けてきたが、ことここに到っては、隠岐国が女院分国であったことは明白であろう。また、藤原清隆も複数のルートとつながって活動していることがわかる。この記事から下野守も美福門院人事であると誤解する人がいることを懸念する。雅教の叙位が女院給であるのに対して、義朝は故善子内親王(白河院娘)合爵、範忠は故聡子内親王(白河院同母姉)合爵での叙爵である。雅隆は前年末の駿河守辞任時から準備されていたのに対して、義朝と範忠は急遽決まったため、このような変則的な理由付けとなった。善子内親王は伊勢斎宮を退下して都に戻ったさいに、清隆の父隆時宅を御所として入ったという縁があった。藤原宗国の下野守補任は四年前の三月一八日であり、二八日はぎりぎりのタイミングであった。

 

仁平三年四月六日の除目1

 この直前の三月二八日の除目を藤原清隆が主導したのは前述のとおりで、付け加えると、刑部卿に補任された藤原雅教は、清隆の正室で嫡子光隆の母家子の兄弟である。雅教が光隆の年齢差一六才からして、家子が同母姉であった可能性が高い。その母は藤原顕隆の娘であったが、夫家政が死亡すると藤原俊忠に再嫁している。
 四月六日も臨時の小除目であるが、三月一三日に上野介藤原信盛が病気で死亡したことにともなうものであった。信盛は美福門院得子の兄顕盛の子であり、兄俊盛とともに女院分国隠岐から上野へ遷任していた。その後任に二六才の摂津守藤原重家を遷任させた。重家は得子の父長実の同母弟顕輔の嫡子で、摂関家との関係が深い人物であった。摂津守の前には父顕輔が国主である筑前国の国守に一七才で補任され、四年余り務めていたが、やはり美福門院の乳母夫である親忠と相博している。後任の摂津守には蔵人から藤原俊経を起用した。同時に女院分国若狭の国守を乳母夫親忠の病気・辞任に伴い越前国守である孫隆信(美福門院加賀の子)を遷任させ、その跡には女院の兄長輔の子実清を起用した。
 重家は摂関家との関係で位階を叙せられ、その知行国の国守に起用されているが、この前後は女院分国の国守の交替に連動して遷任している。女院死後の永暦二年正月の除目では若狭国守隆信と遷任しているが、その年の内に能登守に遷任した。一方、皇太后宮聖子、その母で忠通の妻である宗子、さらには皇嘉門院聖子、忠通の娘中宮育子の関係で叙位を重ね、嘉応二年正月には従三位で公卿に列し、嘉応三年一二月には知行国主藤原基房(忠通の子)のもとで太宰大弐をつとめている。以前、重家が国守を務めた国を美福門院分国としたのは誤りであり、訂正する。美福門院得子の従兄弟ということで、連動して動かしやすかったのだろう。

2020年10月29日 (木)

源有仁と崇德院

 有仁は後三条天皇の晩年の子輔仁の子である。父が永久の変により皇位継承の可能性がなくなる中、一一一九年一〇月に源姓を賜り従三位左近権中将とされた一七才の有仁を閑院流藤原公実が娘聟にしている。その娘は藤原経実の室と璋子(待賢門院)の同母姉妹であった(『續世継』)。有仁との間に子はなかったとみられるが、姉妹の娘を養女とした懿子が待賢門院の子雅仁との間に守仁(二条天皇)を産み、父経実が死亡した時点で一三才であった経宗は待賢門院のもとで成長している。その三才年上が女院近臣源師時の晩年の子師仲で、三才下が源能俊の晩年の子光隆であった。一一三五年三月四日に女院と鳥羽院の前で闘鶏が行われた際に右方の人々の中で上下とも水干装束の師仲を鳥羽院が賞しているが、経宗と光隆は指貫の袴に水干狩衣の出で立ちであった。前述のように、三人の中で最年少の光隆は女院と同じ一一四五年に死亡したが、残る二人は信西入道排除を主目的とする平治の乱で主導的役割を果たしている。
 崇德天皇の後宮に有仁に仕えていた源行宗の養女兵衛佐局が入ったのは、有仁の室が崇德の母待賢門院の同母姉という縁からであった。同様に、有仁が一一四七年に死亡した後、仕えていた公家が崇德院に仕えるようになったのではないかと推測したが、そのパイプ役となる立場の有仁室は一一五一年九月二二日に死亡している(『本朝世紀』)。
 以前は崇德は輔仁の即位を阻止した白河の曾孫であるので、なぜ、行宗の養女である兵衛佐局と結び付くのか不思議であったが、わかってみればなんということもなかった。なお有仁のもとには師仲の異母兄師行の嫡子有房が養子に入っていたが、一〇代半ばで有仁が死亡し、有仁の娘との間に子が誕生しなかったのか、花園左大臣家を相続せずに、実家に戻って活動を続けている。

源頼政の娘

 角田文衛氏は源隆保の娘が源頼政の室となっているとされたが、系図では頼政の娘が「隆保卿室」とあるので、源隆保ではなく、公卿になった藤原隆保とすべきである。ただ問題は後者の隆保が一一五〇年生である点である。頼政は一一〇四年生であり、ありえない開きではないが、一一四〇年以前の生まれとした源隆保も棄てがたい説である。頼政は平治の乱の始めまでは義朝と同一歩調を取っていたが、途中で清盛方に転じて、乱の勝者側となった。
 藤原隆保は隆季の子であるが、兄隆房が清盛の娘を室としたことで、一族は平家との関係を強めた。隆季自身は本来は待賢門院・崇德院派であったため、近衛天皇の即位後は昇進面で相対的に冷遇されていたが、平治の乱で信西入道が排除され、その後、平家と結んだことでその地位は向上した。因幡国は一二世紀前半は待賢門院・崇德派の人々が国主・国司となったいたが、平治の乱後、隆季の知行国となったことで、在庁官人等はその地位を維持することができた。その例が因幡国の高庭介資経で、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことで、その子が平家方となったにもかかわらず。頼朝から所領を安堵された。資経は崇德院の側近日野資憲の影響下にあり、後に知行国主隆季を通じて平家との関係を強めた。
 頼政が平家と接近するのは一一七六年に六条上皇が死亡した後であり、そこで頼政娘が藤原隆保の室となることはありうるが、頼政の娘で藤原重頼の室となった二条院讃岐も一一四〇年頃の生まれとされており、藤原隆保の室となると、頼政が五〇才近くになって生まれた娘となる。これに対して、源隆保の室(これとは別に、藤原定家の異母姉が室であった)となれば、一〇年程度早まり、讃岐宣旨と同年代となる。系図の「隆保卿」を重視すれば藤原隆保の室となるが、それを除くと源隆保の室のほうが可能性は高くなる。その場合は平治の乱の前に婚姻関係が結ばれたことになる。

一〇月末の近況

 アメリカ大統領選挙はなお混乱が予想されるが、結果を待つしかないようだ。
 日本学術会議の問題は会議の性格を全く理解していない首相のとんでもない低レベルの発言が続いている。静岡県知事の発言があったが、東大、京大卒であろうとも無教養な人は山ほどいる。法政大学総長田中優子氏は同大・大学院で学び、国文学と社会に関する研究で高く評価された人物である。学問の自由権が国家からの自由であることを無視して発言する人(これも知らない人と知っていて解釈を自分勝手に変えている人がいる)が多い。前首相と現首相は欧米では政治家になることすらできなかったレベルの人でまさに「なんとかの一つ覚え」と「はだかのかんとか」に該当する。是非欧米でも指導者になれるレベルの人を首相とする必要がある。そのような人はいると思うが、情報がなく、具体名をあげることはできない。
 囲碁三星火災杯ワールドマスターズはベスト八が出揃ったが、主催企業がある韓国勢(出場者が最も多い)が一人というのは衝撃的結果である。その兆候はみえていたが、これまた韓国企業が主催しているLG杯では八人中六人を占めてなんとか面目を保っていた。中国ほどには若手の台頭が乏しいのであろう。現在のレーティングでは一位申真諝九段、三位朴九段、九位申旻埈(こちらが昨日一力八段に敗れた)まではよいが、二〇位以内はここまで(もう一つのランキングでも同様)ある。残った一人申真諝九段は虎丸前名人と同じ20才だが大変勝率が高く、今年の対中国勢との対局も一二勝二敗(中国一位柯潔九段と二位辜梓豪九段)である。一六強戦では中国三位の連笑九段に勝利した。もうひとりの申旻埈九段が21才であるが、この下の世代が韓国では台頭していない。中国でも以前ほど10代で世界戦優勝という棋士は登場してはいないが。
 虎丸前名人ど同年齢の大西七段は国内戦では本因坊リーグ入りで七段に昇進し、国際戦にも出場しはじめているが、成果はこれからである。一力碁聖は前述のように高校生の時代から国際戦で活躍していた。大西七段は仲邑初段と同様に韓国へ囲碁留学していたようだが、一方では思うところがあるのだろう、早稲田大学で学んでいるようだ。問題はこれに続く世代であるが、昨年の新人王広瀬四段が19才、今年の新人王関航太郎三段が18才である。関三段は青少年の世界大会で日本唯一の優勝者(12才未満の部)である。一力碁聖(12才未満、優勝は柯潔九段)と芝野前名人(12才以上)、さらには若くして亡くなった島根県江津市出身の関西棋院長谷川広七段(12才未満)が準優勝者。関三段は昨年のNHK坏囲碁杯に初出場したが、藤沢秀行門下筆頭の高尾九段に完敗であった。関三段は孫弟子となり、普段から高尾九段の指導を受けているとのこと。国内予選を勝ち抜いて三星火災杯に出場した関西棋院佐田七段のように大器晩成のタイプもいる、佐田七段は本因坊リーグ入りを決め、名人リーグも予選決勝戦に進出している。今年の一二月で24才と若いのだが、今年になって急に表舞台に登場してきた感がある。新人王戦は関三段と佐田七段の決勝戦であった。女流では秀行門下藤沢四段が22才、上野三段が先日19才になったばかりである。若手棋士は関西棋院四段洪清泉氏(韓国から来日)の道場か日本棋院藤沢八段の教室の出身者が多い。前者は一力、藤沢、芝野であり、後者が広瀬、関、上野という面々である。仲邑初段は韓国留学と父が日本棋院九段、男子で最年少14才の福岡初段は洪道場。ただこうしてみると、日本のスポーツや政治、日本の古典演劇でよくある親子鷹(世襲制)が多く、広がりという点で課題があるように思える。

2020年10月26日 (月)

下野守藤原為親から

 源義朝の後任の下野守は一一六一年三月一〇日(月日は旧暦)に下野守復任の除目があった「正四位下藤原朝臣為親」である。日野資憲-藤原宗長-源義朝と摂関家との関係が深い人物が続いたので、為親の系譜上の位置を確認しようと思った。すると、同日に復任していたのは「出羽国 守従五位上高階朝臣泰任〔経〕」と「越後国 守正四位下藤原朝臣邦綱」(木工頭も)であった。泰任は前後の関係史料から、「日本一の大天狗」の候補者(河内祥輔氏による)にもなった後白河院近臣泰経の誤記である。この時三二才であるが、当方が注目していたのはその母が藤原宗兼の娘=池禅尼の姉妹(同母かは不明)であったことである。池禅尼が危篤となり、頼盛が賀茂臨時祭への使者を辞退したいと申し出たのは一一六二年一一月のことなので、今回のケースには該当しないが、泰経の母ないしは父泰重が死亡したことによる復任である可能性が高い。
 為親といえば摂関家家司でもあった藤原親隆の子為親がいる。公卿にはなっていないが『弁官補任』によりその経歴を確認できる(編纂所データベースでは『史料総覧』の綱文に関する史料がヒットするが、Wikipediaでも『弁官補任』から引用されている)が別人である。正四位下とは公卿の一歩手前であり、同じ位階であった邦綱も公卿に昇進しているが、為親に関する史料は、これ以外みえない。『尊卑分脈』にも該当する人物はみえない。ということで題名が「から」となった。[修正]下野守為親は正五位下(保元三年一二月叙)の誤りで、親隆の子為親であろう。皇后宮(得子)大進となっているが、やはり摂関家関係者となる。右中弁であった承安二年正月一九日に朝覲行幸行事賞、建春門院御給で従四位上に叙せられ、翌年以降の弁官リストにはみえない。
 邦綱(1122-81)とは大学の卒論で伊予国弓削島庄を扱った際に、前述の藤原能盛とともに出逢った。摂関家有力家司でありながら、平家による摂関家横領事件に加担したと言われていたが、近年の研究では、松殿基房に対抗するため、清盛の娘で基実の後家となった盛子が摂関家領を相続したもので、押領ではないと評価されている。邦綱の関係者で注目したのは、崇德の御願寺成勝寺に最多の三ヶ所を寄進した増仁の娘(高倉院女房少納言)が邦綱の妾となって、子重邦を産んでいることである。増仁の姉妹が忠通の乳母であった讃岐宣旨で、為房の妾として、朝隆・親隆兄弟を産んでいる。邦綱の娘には未婚でありながら高倉天皇の乳母となった邦子がいる。一一六五年に典侍となり、別当三位と呼ばれ、宣陽門院領にも「女房別当三位家領」五ヶ所がみえる。一一七九年一一月の平家のクーデター時は子基能が右衛門尉の位記を止められており、後白河院派であったのだろうか。一二〇六年には非参議公卿となっている。
 重邦は近衛家家司(下厩別当)としての活動が一一九七年正月三〇日から一二一一年三月一五日まで確認でき、同年正月二三日には子邦成とともにみえている。一二一三年正月一八日に後鳥羽院が蓮華王院修正に臨幸した際の記事にも殿上人の中に重邦がみえる。邦成は一二五〇年に「前尾張守(一二四六年在任)邦成」とみえ、重邦の娘左京大夫が一二四六年の時点で近衛家領尾張国長岡庄を知行している。邦子は邦綱の早い時期の子で、基能、重邦は晩年の子であろう。一一九八年三月二七日の石清水八幡宮臨時祭では故大納言邦綱卿息男である右衛門佐基能が新舞を披露している。
 一一六二年三月一〇日までの邦綱の假服の対象者が誰であったかは不明とせざるを得ないが、成勝寺領の寄進者増仁も待賢門院・崇德流とともに摂関家との関係を有した人物であることが再確認できた。

 

2020年10月25日 (日)

平親宗について2

 親宗は一一八三年正月には参議に補任され公卿となったが、六月末の平家の都落ちには随行せず都に留まった。同年一二月の木曽義仲のクーデターで解官され、一一八五年一二月には義経との関係で解官されている。後白河院との関係が強かったことを意味している。一一八七年正月に還任し、正二位中納言にまで進んだが、一一九八年一〇月には興福寺・春日神人が和泉守宗信を訴え、宗信は解任・配流され、国主であった父親宗は九月一二日に補任されたばかりの大嘗会御禊装束使長官を解かれている。親宗の死を知った藤原定家は、自身も解官され、子は流罪人となったのに、一一九九年正月には従二位から正二位に進み、六月には権中納言から中納言に昇進、さらには死の直前の七月一三日には子親時を国守として加賀国知行国主となったことを厳しく批判している。
 親宗の嫡子親国は藤原光隆の娘を室としたことで、一一九八年三月に範子内親王が土御門院の准母として皇后宮となると、皇后宮大進を兼ね(後に亮)、一二〇一年一二月には皇后宮御給で従四位下、一二〇四年正月には土御門天皇母在子(承明門院)給により正四位下に叙せられ、土御門天皇の蔵人頭となった。次いで一二〇六年には従三位に叙せられ、非参議公卿となったが、二年後に四四才で死亡した。親国の嫡子が出雲国知行国主として宝治の大社造営を行った有親であった。有親は藤原光隆の娘を母とすることから起用されたと思われる。当時の大社領家は光隆の孫重隆であった。
 有親は一二一五年四月には順徳天皇の中宮立子(書いたことをすぐ忘れるが、頼朝の同母妹が能保の間に生んだ娘が母、同母兄弟に道家と中宮権大夫となった教家がいる)のもとで中宮権大進に補任され、翌年正月には従五位上となったが、三月二八日には権大進を辞し、それ以降承久の乱までは散位であった。それが承久の乱後、守貞親王の子が後堀河天皇として即位したことで、環境が改善した。有親と守貞親王の関係は不明だが、順徳天皇の即位(一二一〇)により即位の可能性が失われた守貞は出家し、有親は鳥羽・順徳とは距離を置いていたことが、乱後の登用と急速な昇進につながったか。一二三一年二月に生まれた後堀河の子秀仁親王が一〇月二八日に立太子されると蔵人頭であった有親は春宮亮を兼ねている。
 佐伯徳哉氏は「有親の父方の叔父平親長は、安貞二年には正四位下で蔵人頭、寛喜二年には従三位に登るなど、実務官僚として天皇の秘書局長の要職から公卿へと昇進を遂げている。」と述べているがこれを書いた意図は不明である。親長の生年は不明だが、有親とは逆に一二一九年に立子の中宮大進に補任されており、鳥羽・順徳に接近した。このことが乱後の昇進に影響し、親長は一二三〇年に非参議公卿(極官は正三位治部卿)になったのみであったが、有親は一二三二年に参議となり、従二位まで進んだ後に出家している。正五位下になったのは親長一一九四年、有親一二二二年と二八年の違いがあったにもかかわらず。

平親宗について1

 平時信の子達の母親に関する系図と公卿補任の情報には混乱がみられたので、親宗本人について確認する。
 親宗は一一九九年七月二七日(月日は旧暦)に死亡した。年齢には小幅なズレがあるが『明月記』の記す五六才が正しいとされる。一一四四年の生まれとなる。『補任』には母は時忠と同じとあるが、時忠の母は一一四〇年に藤原顕憲との間に能円を生んでいる。また、時信も一一四二年には藤原顕頼の娘との間に滋子が生まれており、親宗は時忠の異母弟である。『尊卑』はその母について大膳大夫家範の娘とするが、物理的に不可能なことは前述の通りで、家範の嫡子基隆の娘ならギリギリ可能である。
 一一六〇年九月二七日に一七才で蔵人に補任され、一〇月二二日に叙爵したが、それ以前に一院(鳥羽)判官代を務めたことがあった。父時信は六才時に死亡し、その翌年には母の異母兄忠隆が亡くなっている。忠隆の嫡子隆教が早世し、その後に嫡子となった信頼も忠隆死亡の直前に土佐守から武蔵守に遷任したばかりであった。信頼はその名から母方(顕頼)の従兄弟光頼の影響下にあったと思われる。光頼は忠隆の死亡時に三七才、従四位上右中弁で、保元の乱直前の一一五六年三月の除目で参議となり、乱後の九月一三日に従三位に序せられている。四三才であった。前述のように、元服時の異母姉の夫藤原親隆との関係も想定できる。
 親宗は一一六六年には父にちなむ兵部権少輔に補任され、一一六七年正月の除目で朝覲行幸に院司としてかかわったということで従五位上に叙せられ、二月七日には伯耆守を兼ねている。前年一〇月一〇日に滋子の子憲仁の立太子が実現し、滋子も従三位に叙せられ、正月には女御となっている。それに先立つ一一六六年九月六日には藤原清隆の娘の関係者が鞍馬寺に参詣している。これを記した三条実房は公教と清隆の娘との間に一一四七年に生まれている。実房の扈従者に「親宗」がみえる。一一六八年四月九日酉刻(一八時前後)に伯耆守親宗から実房に今夜新院(六条院)の行幸があるが、日頃供奉する人々が所労により参向しないので、供奉するように依頼があり、実房は参院している。中宮(育子)権大夫源定房、右京大夫藤原邦綱(摂関家家司)、皇后宮(忻子)権太夫藤原朝方、六角宰相家通(藤原忠教の孫。父忠基は清隆の娘を室とする)、中宮大進藤原光長(経房同母弟)が参加したとある。二条天皇派の面々であろうか。
 一一六八年一一月二〇日に高倉天皇即位に伴う大嘗会が行われた際に、二年前の基実の死により摂政となった松殿基房の参入に、右大臣九条兼実、内大臣源雅通、左大将藤原師長(頼長子)が所労を理由に扈従せず、これに立腹した基房が参入を拒否した。そのため、皇太后滋子が皇太后宮権大進であった伯耆守親宗を使者として遣わして説得し、ようやく基房が参入するという事件があった。このため、雅通と師長が解官された。親宗は一一七三年八月には蔵人・右少弁に右衛門権佐を兼ね、三事兼帯となった。実務能力にすぐれていたことになる。三〇才であった。
 一一七九年一一月の平家のクーデターで一旦は後白河院近臣として右中弁等の職から解却された。三年後の一一八一年九月二三日に復帰して左中弁となり、一二月には右大弁と蔵人頭を兼ねた。清盛が死亡し、後白河の院政が復活したためである。この点からも、親宗が時子・時忠の同母弟であるとする『補任』の記述は誤りである。これは角田氏も論文で述べているにもかかわらず、美川氏が誤ったのは不可思議であり。

 

2020年10月24日 (土)

源義朝の政治的立場3

 兵衛佐局が崇德天皇に仕え、一一四〇年に重仁を産むと、その養父である源行宗と播磨守忠隆がサポートにあたるようになったことは前述の通りである。大蔵卿行宗は一一三九年正月の除目で、崇德天皇が鳥羽院のもとへ行幸した賞として待賢門院御給で七六才で従三位に序せられた。兵衛佐局が崇德の寵愛を受け始めたことが背景であろう。翌一一四〇年九月二日(月日は旧暦)に重仁が誕生し、崇德の退任まぎわに内親王となり、一一五〇年には元服して三品に叙せられた。
 行宗の子雅重は一一三四年正月に従五位上に叙せられ、一一三五年三月に鳥羽院と待賢門院が法金剛院東新造御所(周防守憲方が造進)に渡御した際に、源有賢子(宗賢ヵ)とともに行宗朝臣子が従っている。後者が雅重で、前者に比定できる宗賢とともに女院に近侍していた。宗賢は女院出家時には甲斐守であったにもかかわらず自らも出家した。一一四〇年三月には行宗が大蔵卿を辞して子雅重を紀伊守に申任している。まさに重仁をサポートするためである。一一四三年閏二月に行宗は出家し、一二月二四日には八〇才で死没している。その後は兵衛佐局は参議藤原教長(行宗の兄季宗の娘が教長の父忠教の室となっているが、教長の母は前述のように源俊明の娘)の養女となった。教長は保元の乱時に頼長父子を除けば公卿では唯一崇德院のもとに参上した。
 一一四四年三月一〇日には雅重が父行宗の喪があけて紀伊守に復帰している。四月一六日の時点では斎院(行宗娘と輔仁親王間に生まれた怡子女王)長官でもあった。一一五一年八月一〇日の春日祭には新院(崇德)殿上人として雅重がみえる。翌一一五二年正月には斎院長官労として雅重が正五位下に叙せられている。その後は史料が確認できす死亡した可能性がある。一一五三年三月二八日に義朝と範忠が叙爵していたように、近衛天皇の後継者誕生の可能性は失われ、崇德院が鳥羽院の後継者となる可能性は大きくなっており、重仁の外戚である雅重の昇進のチャンスは大きくなったはずである。系図からは、雅重と重仁の乳母夫となった忠盛の娘との間に基宗が生まれていることと、その兄弟基能に「斎院長官」との尻付がある程度である。その忠盛も一一五三年一月一五日に五三才で死亡している。それはともあれ、三月二八日時点では崇德院をめぐる環境は悪くはなかった。保元の乱は異母弟頼長の失脚のチャンスをうかがっていた忠通の台本に、鳥羽院の死を契機に信西入道が書き加え、脚色したことで、想像できなかった事態となった。頼長と崇德院が結び付いたのも、その事態急変によりもたらされたものであった。
 「源義朝の政治的立場」の記事のみを読むと、義朝が崇德院方にならなかったのは何故かという疑問を持つ人があるかもしれないが、本来の崇德院支持勢力では藤原教長以外は、出家・中立か後白河院方との二つの選択肢しかなかったのである。

 

源義朝の政治的立場2

 調べていると予期せぬ情報に遭遇し、それが過去にであったが意味がわからなかった情報を生き返らせることがままある。今回は、建春門院滋子がスタートであったが、次々と範囲は広がっていく。滋子の異母姉である時子、藤原親隆室、異母兄時忠を産んだ女性は藤原顕憲との間に能円を産んだ。能円の娘が後鳥羽院との間に土御門院を産んだ在子であった。能円には一条能保の室(ここでは妾との区別はしない)となり、土御門院の乳母となった娘もいた。さらに、藤原忠季の室となった娘があった。
 この二人の娘の名をみて思い出したのが、元暦元年六月五日の除目で讃岐守藤原忠季が国守の任を止められ、その後任に能保が補任されたとする『公卿補任』の記事である。単純に交替したのならばこのような表現にはならないはずだと思っていたら、能円の娘を室とする能保と忠季がいることに気付かされた。そこで忠季を調べると、中山忠親と藤原光房(為隆の子で経房の父)の娘の間に生まれ、同母兄兼宗が嫡子であった。一一九六年に公卿への登竜門である頭中将在任中に病死している。年齢は不詳であるが、そのことを聞いた九条兼実は優れた人材が失われたことを悲しんでいる。あの辛口の兼実であるので有能であったのだろう。兄兼宗が一一六三年生であり、忠季は死亡時に三〇才前後であろうか。兼宗も三一才で蔵人頭に補任されている。
 『古今著聞集』については、最近、本郷恵子氏の著作で認識を新たにしていたが、その中に、忠季が督典侍(能円娘)のもとに通いつめ、想いを遂げて生まれたのが親平であることを記した記事があった。また、藤原基隆が周防国を知行していた際のエピソードもあったが、そこに記された保安三年は基隆の嫡子忠隆の同母弟経隆が周防守であり、記事が記す年号に誤りはなかった。さらに、德大寺の大臣が熊野詣に行った際に知行国である讃岐国から多数の人夫を調達したが、多すぎたとして途中で返すことにしたところ、ある人夫がせっかく熊野詣に同行できることを喜んでいたので、連れて行くことを求めたという。少しの食料ばかりを与えてもらうだけでいいと行ったため、連れて行ったところ、その人夫は参詣できたことを喜んだと。
 問題は、讃岐国が德大寺大臣の知行国となったのがいつかである。德大寺実能-公能-実定はいずれも大臣になっているが、可能性があるのは、元暦元年六月五日に一条能保が讃岐守に補任された際の国主が実定であったことであろうか。能保の母は実定の姉妹(同母かどうかは不明)である。能保は父通重が早世したために昇進は遅れており、頼朝の同母妹坊門姫との婚姻はともに待賢門院・崇德流に属していた同士のものであった。能保は七歳で上西門院御給で叙爵し、保元二年に一一歳で丹波守となったが、一年で交替すると、それ以降は德大寺公能の娘(実定の一才上の同母姉)で、頼長の養女として近衛天皇に入内した多子のもとで大皇太后宮権亮をながらく勤めていた(一一六七年末~一一八四)。それが讃岐守に補任された。前任の忠季も一〇代後半であった思われ、父忠親が国主であった可能性が高い。国守が能保に交替すると同時に実定が知行国主となったのだろう。次いで文治二年六月二八日には前述のように源隆保が讃岐守となり、能保が国主に昇格した。
 『公卿補任』には能保は讃岐守に補任された直後に大皇太后宮権亮を辞任して長経に譲ったとの記事もある。長経といえば八条院の近臣として丹後守をつとめた人物がいるが、こちらはこの前後を通じて皇后宮(後白河と季成娘との間に生まれた後の殷富門院)権大進の地位に変化はない。藤原光隆の母の甥である雅長の子長経もいるが、「修理大夫」「佐渡守」のみある。佐渡守補任の時期は不明だが、能保が大皇太后宮権亮を辞任する代わりに佐渡守に補任されたのであろうか。すぐ新たなポストが得られる人物が、現職を辞任して関係者がポストに補任されるようにすることはよくあることである。
 盛実は頼長の外祖父である事で知られるが、藤原家範の室、家隆の室となった娘もいた。前者が生んだ娘が時信室となり、美福門院女房となったが、後者は待賢門院女房(備中ヵ)となり、その娘が同じく待賢門院女房に仕える中で平忠盛の子教盛を産んでいる。次いで教盛が日野資憲の娘を正室にしたのは前述のとおり。忠実の弟である家隆には皇嘉門院女房となった娘もいた。同じく忠実の弟家政の嫡子が雅教であり孫が雅長であった。家政の娘家子は清隆の室となり、光隆を産んだが、後に近衛天皇の乳母となった。
補足:能保が大皇太后宮権亮を譲ったのは坊門信清の弟長経であろう。系図には「大皇太后宮亮」とあり、後に権亮から昇進したのであろうか。その子が隆保、隆経と、一条能保や源隆保との関係をうかがわせている。兄信清の娘信子が源実朝の室となり、別の娘は九条良輔の室となっている。九条家の家司として散見する「長経」と同一人物であろう。

 

建春門院滋子3

 角田文衛氏「建春門院」(以下では角田論文)を読んでいる。角田氏の仕事は大変評価できる一方で、思い込みも随所にみられ、後進の研究者がそれを訂正していくことで、その価値はさらに高まるはずであるが、それがなされていない。ある意味では独力で『遺文』を編纂した竹内理三氏と相通ずるところがある。『遺文』は大変便利であるが、文書名や人物の比定の修正、さらには追加資料の発掘という作業によりその価値は更に高まる。ところが、角田氏の仕事を無批判にうけれる研究者が多いのが問題である。責任は角田氏ではなく後進の研究者にある。
 今回は美川氏が系図史料を扱う場合に、史料批判なしに安易に利用しているのが問題であった。角田論文では「堂上平氏略系図」が掲載され、そこには時子・時忠の母は「令子内親王半物」とあるが、本文中には時子には双子の姉妹がいるように書かれている。姉が時子で、妹は藤原顕隆の異母弟親隆の室となり嫡子親雅を産んでいる。親雅は一一四五年生まれであり、その母が一一二六年生まれの時子と年齢が近いのは確かであろう。時子が清盛の子宗盛を産んだのは一一四七年である。親隆は母が忠通の乳母であった讃岐宣旨であることもあって待賢門院のみならず摂関家との関係が深かった。時信の父知信、弟信範も摂関家家司であった。
 系図には時信の子親宗の母は「大膳大夫藤原家範娘」とあるが、本文中では修理大夫藤原基隆の娘で美福門院少将局であると述べてある。家範の嫡子が基隆である。そこで『尊卑』を確認すると、親宗の母が家範の子と基隆の子の両方に記されていた。そこで家範の晩年の娘が嫡子基隆の養女とされたとの想定が可能となる。家範は一一二三年に七六才で死亡し、基隆は一一三二年に五八才で死亡している。一方、親宗の誕生は一一四四年である。物理的には家範の娘であるならば、出生(父が六〇才と想定)は一一〇七年頃までなので親宗を産んだのが三八才以上となる。そうすると基隆の晩年の娘であったとするのが合理的解釈である。基隆には藤原信通(一〇九一年生)、成通(一〇九七年生)の室となった娘がいた。前述のように時信は一一〇四年生であったが、親宗の母は、二才年上の異母姉滋子の母祐子(一一二〇年代前半の生)と同世代と考えられる。
 親宗の母は一〇才前後で父基隆が死亡しており、異母兄忠隆の庇護下で時信と結婚したと考えられるが、親宗が六才時に夫時信は死亡している。忠隆の嫡子隆教は前述のように一一四三年暮れに死亡している。その異母弟信頼は一一三三年生(母は顕隆の嫡子顕頼の娘)であるが、一一四四年に皇后得子御給で叙爵し、四六年には得子の娘八条院御給で従五位上となっている。親宗の母が美福門院女房となったのは異母兄忠隆との関係であろう。その忠隆も親宗が七才である一一五〇年に死亡しており、親宗が元服した際にかかわったのは、時子の同母姉妹を室としていた藤原親隆ではないか。
 親隆は忠実の子忠通、高陽院、頼長にも仕えていたが、頼長が近衛天皇、次いで鳥羽院からの信頼を失うと距離を置くようになる。久寿元年(一一五四)正月に頼長の子兼長が春日上卿となり奈良に赴いた際の行列には多くの公卿・武士も従ったが、翌二年に異母兄師長が上卿となった際には、公卿の不参者が目立ち無勢であった。平信範は『兵範記』の中で、頼長の執事であった親隆が不参なのは奇とすべしと述べている。近衛天皇が死亡し、後白河が即位し、その子守仁が春宮となると、親隆は春宮亮に補任され、永暦元年二月一三日美福門院庁下文には筆頭別当の位置に署判を加えている。

 

2020年10月23日 (金)

建春門院滋子2

  手元に栗山圭子「池禅尼と二位尼-平家の後家たち」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』)があるので読みなおしてみた。美福門院得子が崇德院の子重仁と雅仁の子守仁を養子としたことについて、得子の用意周到な措置と述べているが、得子は重仁誕生時二四才であり、鳥羽院の意向以外には考えられない。この辺に氏のセンスのなさを感じる。次いで『今鏡』をひいて、得子の養子となった重仁の諸事万端は重仁母(兵衛佐局)の実家(養父源行宗)方や「内の御乳母子の播磨の守」らが取り仕切るように仰せられたことを引用する。播磨守とは崇德の乳母宗子の子藤原家成であるとするが、重仁誕生時の播磨守は藤原忠隆、その前任者は藤原清隆で、家成が播磨守であったのは重仁誕生の四年前(一一三六)までである。その時点で権中納言兼右兵衛督であった家成を播磨守と呼ぶことはない。家成の母宗子は一一二九年一月二四日に四三才で死亡している(『中右記』同日条)。その前から重病であったことが記されている。家成は崇德より一二才年長で、顕保という同母兄もいた。これに対して現職の播磨守忠隆の妻栄子(顕隆の娘で顕頼の同母姉妹)も崇德天皇の乳母であり「乳母子」は「乳母夫」の誤りではないか。藤原清隆の場合は妻家子が皇太子体仁の乳母となっている。内=近衛とすれば清隆は乳母夫である。
 栄子の生没年は不明だが、栄子を母とする忠隆の嫡子隆教(室は忠盛娘)は崇德天皇と同世代で、崇德天皇が退位した直後に崇德の母待賢門院の周辺の人物が得子を呪詛したとして配流処分となったことに抗議して天皇への供奉に参加せず、停任処分を受け、復任後間もなく死亡したことは前述の通りである。総合的に判断して播磨守は現職の忠隆とすべきであろう。これまでの研究は家成の母の姪が池禅尼であることに引きずられ過ぎていた。
 偶然ではあるが、『中右記』の同日条には、二〇才であった平清盛が正月の除目で叙爵して左兵衛佐に補任され、人々の耳目を驚かせたことも記されている。なお白河院の時代であり、白河が崇德の側近として期待した家成(兄顕保が本来の嫡子であった)は、一方では鳥羽院分国の国守にもなっていたが、清盛の叙爵任官が家成の力で実現したとは思われない。家成の父家保も健在で、待賢門院の院号宣下により中宮(璋子)亮から女院別当に転じていた。次いで白河院没後の除目で保安二年以来の播磨守から伊予守に遷任している。
 池禅尼が重仁の乳母となったのも、忠盛と待賢門院の関係がまずあった。両者の間に生まれた家盛も近衛天皇即位直後の儀式に参加せずに隆教(停任、室は忠盛娘、年齢的には家盛の同母姉の可能性がある)とともに処罰(こちらは恐懼)を受けていた。そしてその母は宗兼の嫡子宗長と同様、日野有信の娘であった可能性が高い。宗長は待賢門院判官代であり、崇德院の最側近日野資憲は有信の嫡子実光の子であった。清盛の異母弟教盛は日野資憲の娘を妻としたが、それは教盛が待賢門院・崇德流に属していたからである。院政期の政治史は根本的見直しが必要である。なお、時子の母については当然のことながら、『吉記』に基づき記されていた。時子の母はその後藤原頼長の家司(頼長の母の兄弟でもある)藤原顕憲との間に一一四〇年に能円を産んでいる。能円は保元の乱の時点で一七才であるが、異母兄達は崇德・頼長方となって解官・配流されている。能円が異父姉時子の養子となったのは乱後であろう。

2020年10月22日 (木)

建春門院滋子1

 当ブログでは藤原顕隆と忠俊の子孫に注目していることは前述の通りである。建春門院については角田文衛氏の論文があるが、未見である。近々確認するが、その前にまとめてみたい。
 美川圭氏『後白河天皇』を読んでいるが、納得できる点としかねる点が混在している。後者の一つが後白河が滋子を寵愛した背景として、美貌であったからだけではなく,彼女が実務官僚系の最有力院近臣と摂関家側近との間の女であったから、彼女を通じて政治的基盤の脆弱な後白河が、朝廷の実務に影響力をおよぼそうという意図が含まれていたとした点である。滋子の母祐子は勧修寺流で鳥羽院近臣であった顕頼の娘であり、父時信は摂関家家司平知信の子であった。
 これに続いて滋子の異母姉時子について言及しているが、時子と同母弟時忠の母が大膳大夫右少将家範の女とし、その父の位階から分析を加えているが、これは何によっているのだろうか。とりあえずは公卿補任の時忠の項を参照したが、母の関する記述はなかった(親宗の項には時忠と母は同じとあるが、後述のように成り立たず誤りである)。国会デジタル版『尊卑分脈』をみると、時信の子として順番に時忠、親宗、時子、滋子以下がみえ、時忠には母の記述がないが、時子には「母同」とある。その前の親宗の母が大膳大夫藤家範女とあるので、時子・時忠の母も家範女としたのだろう。
 ただ『分脈』には写される中で順番の間違いもよくみられる。実際の年齢巡は時子、時忠、滋子、親宗の順番となり、時子と親宗の年齢差は一八才である。その間に祐子を母とする滋子がいることを勘案すると、時子・時忠の母は親宗とは違う可能性が大である(後述のように一一四〇年には藤原顕憲との間に能円を産んでいる)。本来、年齢差であったのが、いつしか男子が先でその後に女子を記載するように変化した中での間違いであろう。そうでなければ『補任』に記載があるはずである。『吉記』には両者の母は令子内親王に仕えていた女性で一一八〇年の死亡時に八〇才代とのみあり、時信より年上である。美川氏は院政期の専門家としては不似合いな初歩的誤りを犯している。
 時信の生年は不明だが、一一一二年生の弟信範の三年前に文章生となっており、三才程度年長であろうか。と思っていたら一一三〇年に二七才とあり(知信記)、一一〇四年の生まれであった。時子が生まれたのが二三才、滋子より二才年少の親宗誕生時には四〇才で、一一四九年に四六才で死亡したことになる。一一三〇年には大学助平時信の昇殿が認められているが、一方では「女(待賢門)院北面」でもあった。一一三六年には父知信とともに内(崇德天皇)殿上人としてみえる。近衛天皇即位後の一一四一年の鳥羽院庁下文の署判者として「兵部権大輔平朝臣」がみえ(九条家文書)、四三年には、通憲(信西)とともに鳥羽院判官代であった(本朝世紀)が、院庁下文では別当の末尾にみえ、次いで異母弟信範が判官代としてみえる。一一四二年五月五日には鳥羽院と藤原忠実が東大寺で受戒しているが、その際に、藤原顕頼とともに奉行を務めたという。こうした中で顕頼の娘祐子を正室に迎えたのであろう。その理由としては顕頼が時信のひととなりを評価したぐらいしか思いつかない。
 ともあれ滋子が八才の時に父時信が死亡したため、滋子は母の実家=顕頼のもとで育てられたと思われる。滋子の母祐子は顕頼と俊忠の娘との間に生まれており、本ブログの待賢門院・崇德流に属している。同母弟には光頼・惟方・成頼がいた。一一五九年二月一九日に皇后宮であった統子が上西門院となり、殿上始めが行われた。殿上人となった前皇后宮大進成頼(二四才)は、その日記によると一二才年上の兄光頼から出仕をうながされているが、あまり本意ではなかったようである。こうした中で一八才となった滋子も上西門院統子の女房となったのだろう。建春門院となった滋子の女房に上西門院女房からの移籍組が多いのは当然である。滋子については清盛の後室時子の異母妹という側面が強調されるが、時子とは母が異なるがゆえに、待賢門院・崇德流に属していた点がより重要である。

2020年10月21日 (水)

出雲国知行国主西園寺公衡

 嘉元元年八月二八日に出された杵築社造営に関する二通の文書について、一七年前の論文で示した西園寺公衡の関係文書でよいということはすでに述べた。松江市史では西田友広氏により花押の主が藤原経継ヵとされたが、経継とは明らかに異なり、公衡とは大変よく似ている。御教書の奏者であった前石見守安倍朝臣と公衡の関係についても述べた。今回は、公衡が出雲国知行国主を退任した時期が明らかになったので以下で述べる。
 編纂所古記録データベースで検索したところ、新たな関係史料がヒットした。編纂所のデータベースは大日本古記録のシリーズの最新刊を除くものが検索できる。新たな巻が刊行されたことで、検索対象が増えたと思われる。具体的には嘉元元年一〇月二九日の除目で源輔能が出雲守に補任されている(『実躬卿記』)。輔能自身については他の史料がなく、系譜上の位置づけも不明であるが(同日に叙爵している源輔顕がおり、どちらかが誤記と思われる。下総守平俊親も叙爵では大江俊親とある)、知行国主については同年一一月一二日条の五節の舞姫の記事から判明する。担当したのは花山院中納言(家定)と左大弁宰相藤原経継、丹後国知行国主洞院実泰、出雲国知行国主二条道平である。この時点で参議であった経継には知行国はなかったことがわかる。また出雲国は右大将道平分でありなあがら,実際に沙汰したのは道平の父である関白二条兼基であった。道平は永仁三年(一二九五)に公卿となっているが、一七才であり、実際の沙汰は三七才の兼基が行った。ただし知行国主は道平である。やはり知行国制はファジーである。
 西園寺公衡の出雲国知行は嘉元三年一二月三〇日の藤原致連の国守補任までと思っていたが、実際にはその二年前に道平と交替しており、短期であった。これでは大社造営が進むはずはないし、これ以降の知行国主の大社造営関係文書は残っていない。公衡が嘉元三年一二月二二日に伊予国、伊豆国とともに史料では確認できない出雲国をも召し上げられたと述べたのは誤りであった。
 ①嘉元元年八月二八日の公衡御教書の袖判と大変よく似ているのが②嘉元四年七月二二日公衡書状と③同日公衡御教書の袖判(ともに奈良県大宮兼守氏所蔵文書)、並びに④延慶元年一二月二三日公衡書状(円覚寺文書)。②③④は『花押かがみ』4巻にも掲載されているが、②③は刊本未収録でその内容は未確認である。嘉元元年八月時点の出雲国知行国主が西園寺公衡であったことを裏付けるもので、公衡が知行国主であった際の国守が西園寺家の家司としてみえる橘氏(宗成)であることも整合性がある。

年未詳一〇月八日出雲国宣

 年未詳文書は内容と花押から判断するしかないが、表記の①一〇月八日国宣は大社町史(井上寛司氏による)で花押のみから建長三年八月の国司庁宣の次に配され(しばらくここに収める)、出雲大社文書(佐伯徳哉氏による)でも建長元年の大社遷宮注進状と康元元年の大社領注進状の間に配置され、最新の松江市史(これが一番正確。当方もかかわり、二〇〇三年と四年の論文で無年号文書の比定を大幅に修正したが、市史ではそれを踏まえて西田友広氏が判断)でも、明確な判断材料がなかったのか、大社町史を踏襲している。当方も松江市史の時点では明確な判断はなかった。
 国宣の奏者については、大社町史、松江市史が「左衛門尉□□」と名前が判読不能としたのに対して、出雲大社文書では「左衛門尉秋兼」と判読している。写真を見ても、書かれている字形は明確であるが、どの漢字にすべきか候補を思いつかない。宛所の「綾小路大夫判官」について出雲大社文書では国守としているが、目代である。
 次に時継の花押をみると、出雲国知行国主第一期の最後のものとなる文永元年一〇月八日国司庁宣からプロポーションが変わっている。『花押かがみ』第三巻には主なものを掲載しているが、花押カードデータベースではすべてを確認できる。微妙だが、建長年間以前のものとは違うことは確かである。文永元年の花押はなぜか最後の一角が省略されているが、それを除けば一番近い。日付も同じである。年未詳の時継花押には②三月一日国宣のものもあり、後筆で書かれた「建長六年」が採用されている。政盛跡が伊弉諾社料田に寄進されたのが建長五年であるためであろうが、これも花押は文永元年以降のものである。
 平時継が知行国主の時期の国宣としてはこの外に③弘安二年六月六日国宣(国造に対して留守所と共に造営を行うよう命じる)、④九月二一日国宣(弘安四年の追記あり、宛所が欠落しているが、今年中に遷宮を終えるよう目代へ伝えたものであろう)、⑤一二月二〇日国宣写(政盛跡五段田について目代に伝える)があるが、奏者がいずれも右衛門尉章宣であり、時継が再度国主となった弘安年間のものである。年未詳で建長年間に配置されていた二通①②の国宣は花押からは文永元年以降のものとしたが、やはり時継第二期のものであろう。②の国宣では政盛跡屋敷が変改されたとの国造義孝の申出に対して、屋敷のままで政盛の母である老尼が居住しており、義孝には代所を与えることを述べている。⑤では政盛跡の五段田が国司庁宣で伊弉諾社の使丁直田として載せられたが、屋敷之稿(耕ヵ)作であることを存ずるよう目代に伝えられている。なお、時継の第二期国主の時期は国司庁宣がみえず,国守を確定できない。子忠世、経親が出雲守に補任されたことがないことは確認できる。
 以上、史料集で建長年間に配置されていた①②はいずれも時継が二度目の国主となった時期のものであることを明らかにした。建治二年一〇月一八日に吉田経俊が死亡したことで時継に交替しており、その時期は建治二年末ないしは三年初めであろう。弘安四年末頃に出雲国は亀山院の分国となったが、大社造営問題もあって、短期間で交替し、弘安六年三月二八日には持明院統と関係が深い平兼有が出雲守に補任されている。
   なお、弘安三年九月一八日関東御教書が北島家譜に引用されているが、この時期の他の類例は確認できず、正しい文書ではない可能性が高い。同年一二月八日関東御教書(鎌倉遺文一四二〇七)で豊後国守護大友氏に明年四月中に「蒙古異賊等」が襲来することが伝えられている。

大社領本家柳原宮

 大社文書には本家柳原宮関係の文書が残っている。その内容の正確な理解が求められる。
 至徳元年八月一〇日後円融院院宣(千家)では、大社領十二郷について、違乱の社家を退け、一円本所雑掌に沙汰付けるべき事が認められている。柳原宮は永嘉門院の跡を継承する存在であるが、領家雑掌に対して、本家も雑掌を補任して大社領の支配にあたっていたことがわかる。問題はここでいう「社家」の理解である。出雲大社造営をめぐって、院宣で「国衙社家相共に」行えとの命令がしばしば出されたが、従来の研究では社家=国造と理解しているが、そうではなく社家とは領家のことである。国衙は目代が、社家では神主が協力して造営にあたったのである。大社領でも領家が本所であった。その体制が変更されたのが、弘安六年に本家安嘉門院が死亡して、その跡を亀山院が強引に相続したことであった。亀山院は領家松殿氏にかえて自らの関係者を領家に補任した。この結果、本家亀山院が本所としての地位を獲得したのである。
 亀山院の死後、領家松殿氏は復活したが、本家となった永嘉門院との関係はもはや従来どおりというわけにはいかない。ということで、後円融院院宣でいうところの社家とは領家の事であり、大社領が本所(本家)一円領となった。これに伴い、至徳二年八月二五日足利義満安堵御教書写(千家文書写)が残されているが、応永三二年一二月二五日の義持袖判御教書と花押の位置を除けば同一であり、これに基づき後に作成された可能性が高い。
 明徳元年二月五日には後小松天皇綸旨により、承明門院遺領である大社領十二郷と浦等について柳原宮の相伝が認められ、翌二年にも同様の綸旨が出されている。その一方で、明徳元年正月一〇日には出雲国一宮である大社を構成する「日三崎」を大社国造が相計らうことを認めた綸旨も出されている。三崎社検校は国造からの独立を図ろうとするが、逆に国造により圧迫され、何度も起請文を提出させられていた。大社の権益についてさまざまなレベルでの対立が存在した。三崎社が日三崎と呼ばれるようになるのは。検校が天照大神との関係を根拠に大社とは独立した神社であったこと主張したからである。それに伴い御崎社側は「日御崎」の名前を自称するようになった。大社領の浦々と日御崎の境界も問題となったいた。明徳の乱の直後に入部した守護京極氏は大社国造家の苗字地である出東郡千家・北島を大社に寄付するとともに、朝山郷内粟津村に御崎社神田を設定している。この時点でも大社と御崎社の対立は解決せず、継続中であり、守護は御崎社の主張に理ありとしたが、あえて判断は下さず、守護代塩冶氏に対応を委ねている。応永八年の時点では守護京極氏も御崎検校の独立を認め、国造方からの妨げを止めるように守護代塩冶氏に命じ、応永十九年には守護京極高光が杵築御崎検校貞政の知行を安堵している。
 この間の本家柳原宮の動向は不明であったが、応永三〇年五月には山科家による所領の押領を訴えている。前の記事で、本家と領家の間で大社領が分割されたとの説を示したが訂正する。領家の支配が否定され(後に一旦復活した松安隆跡)、本家一円支配が認められる最中に、本家の権益を継承すると号して山科家が登場し、将軍義満の近習であることを背景に、大社領の半分の支配を認められたのである。これに対して柳原宮側は朝廷に訴え、何度かその支配を認めた綸旨を得ているが、実効性はなく、山科家の支配は戦国期まで続いた。以上のように訂正する。なお、柳原宮が一四世紀後半には土御門宮と呼ばれ、来海庄内に権益を有していたことがあったことは前述の通りである。

2020年10月20日 (火)

北島幸孝について

 応永一〇年七月一〇日に北島資孝・幸孝父子が世継の時支え申す事あるまじく候という内容の書違(契約)状を出している。当然、相手であろう千家国造も何らかの約束をしたはずであるが、それは残されていない。これについて井上寛司氏は康永三年の和与状による千家優位という事実とは逆の説に基づき解釈されたため、多くの問題を残した。
 北島幸孝が千家直国の娘を室として迎えたことを前提としてこの契約が結ばれた。両家間の婚姻関係を前提としないと、この内容は理解できない。千家直国の孫として生まれた北島高孝は千家国造を継承することも不可能ではない。実際に、直国は晩年の子に譲った所領について、孫である高国が介入した場合は、同じ孫である北島高孝に付くように置文に記している。
 応永二四年一二月一三日に北島資孝がゆやとの(ゆや六郎、三郎六郎)に国造・神主職と関係文書を譲っているが、実際に国造となるのは所定の年齢に達してからである。文明一七年三月一三日国造北島利孝契約状案に同様のことが書かれている。高孝が一族の塩太郎に国造職と神領等を譲ったが、一五才之内は社職大法を勤めることができないので、代わって利孝が火継を行い、国造職を預かったこと、自らの子孫次郎・三郎の子孫が、成人後(前任の利孝が死亡しないと国造は継承出来ず)の塩太郎の相続に異論を申さないことを約束している。所定の年齢とは一五之外(一五才か一六才かは決め手に欠ける)であった。
 以上を踏まえれば、資孝から孫ゆや六郎への譲与は、子幸孝に他の子が生まれた場合でも国造を相続できることを保障したものである。過去に応永二七年正月二八日千家直国置文に言及したが、この時点では直国が国造で、その死亡時に孫高国が国造となる。その後のことを心配した直国が高国を牽制する置文を作成した。
 北島家譜に、幸孝が応永二八年から八年間国造を勤めたとするのは事実である。井上氏は幸孝が国造ではないとの前提で文書を解釈されたが、それは誤りであった。応永三一年七月一〇日国造北島幸孝・国造千家高国社頭向定の問題点は北島国造幸孝ではなく、翌応永三二年五月一七日の時点で直国がなお健在であったことである。
 応永三二年一二月二五日足利義持御判御教書により国造直国の本領本職が安堵されている。直国の最晩年(三五年に高国に譲与)に、将軍在位三二年目の義持が安堵した背景は何であろうか。日御崎社検校をめぐる問題もあったし、大社本家柳原宮が山科家を訴えた問題もあったが、千家方のみに残っていることから、千家国造直国が幕府に働きかけて認められたものであろう。永享二年には塩穴貞吉が武志郷・鳥屋郷に関する裁判を起こしていた。塩穴氏は両郷の開発を中心的に担った在庁官人の末裔であろう。また「松安隆とは誰か?」で述べたように、領家松殿氏の支配が有名無実化する中で、安隆が楠葉方に寄沙汰を行って、一旦は認められているように、大社の権益をめぐる対立も起こっていた。

 

2020年10月19日 (月)

雑掌孝助と孝宗の合戦2

 すべては六郎貞孝(あかこまろ)が国造を相続できる年齢に達していなかったためである。とはいえ⑧建武三年七月には国造清孝と舎弟六郎貞孝が軍忠状(千家文書、大社420)を高貞に提出して證判を受けており、貞孝は相続可能な年齢間近であった。⑧の主体は清孝であるため、この文書は共有文書として保管され、明治初年に千家文書となったものである。暦応二年二月二七日には孝時の長子であった杵築弘乗坊から、父から預かっていた杵築大社旧記文書以下を清孝方に渡したとの報告を受けた高貞が、弘乗坊が分与されることになっていた所領を知行することは承知したと返事を出している(千家文書、大社429)。「杵築大社旧記文書」とは京都に送られていた裁判の証拠書類を除く文書で、国造家の分立後は共有文書となった。
 北島貞孝と千家孝宗の対立は当座の処置として守護代吉田厳覚が仲介して康永三年六月五日に和与状が結ばれたが、当座のものであり、幕府で裁判が行われた。貞和五年五月一四日に双方の提出書類に幕府奉行人が裏を封ずる旨を記した時点では、圧倒的に北島貞孝が有利であった。貞孝提出の②は母妙善が執筆したものとの主張を孝宗は認めざるを得ず、孝宗定提出の譲状については北島方となる佐草禅光が書いたものを保管していたと主張しても、謀書だとされ、孝宗が国造継承の火継の神事を行っていないとの貞孝の主張に対抗するため出した母妙善自筆の書状については、そんなものは存在しないと一蹴されている。実際に二通とも偽文書である。各文書の真偽は両者とも隠しようのないほどよく知っていた。孝宗が雑掌孝助と合戦に及んだ貞和二年の時点では「国造孝宗并舎弟貞孝等」(千家文書、大社460)や「一方国造貞孝」(北島家文書、大社461)と記されているように両者とも国造とされていたが、貞和四年六月七日に足利直冬が紀州凶徒退治のため発向するので祈祷を命じた「杵築大社国造宛」文書は北島家が保管し、観応元年一一月二一日に足利尊氏が高師泰を石見凶徒退治に派遣したことに伴い、祈祷を命じた文書は「杵築五郎」宛である。少なくともこの時点では北島方がかなり有利な立場にあったのは確実である。結論を急ぐが決着目前の状況を大きく変えたのは観応の擾乱の発生である。裁判が結審しなかったこととともに、長らく続いた反幕府方優位の状況でも北島方が優位であったゆえに、山名氏の幕府復帰によって京極氏が出雲守護となってしまった。同様な事は尼子氏の滅亡時にもあった。経久は両国造家に娘を嫁がせたが、男子が誕生したのは北島国造家であった(ただし父より先に死亡したため相続はしなかった)。毛利氏に対して北島国造は尼子氏方であったとの訴えが千家国造から出されたが、それは千家方も同じであった。
 当ブログは一方に肩入れする意図は全くなく、残された史料の声をきちんと聴くとどのような状況が明らかになるかを述べているのみである。国造家の分立に関する史料を後世に作成しているのは不利な立場にあった千家方である。一方、大社神主について、過去の研究者による国造が神主を独占していたとの理解は誤りで、それは後に国造家が作成した史料(廃棄された重要史料も多数あろう)を研究者が真に受けたためで、実態は大きく異なっていたことを明らかにしている。しいていえば批判は声を聴こうとしなかった過去の研究者に向けられている。中世後期の研究の質も前期と同様に低く「昔の名前で出ています」状態なのだが‥‥。

雑掌孝助と孝宗の合戦1

 この事件の背景を確認したい。①建武元年五月一八日雑訴決断所牒(千家文書、大社397)では、大社神主孝時の訴えが認められ、前雑掌の濫妨を停止し、神主孝時に庄家を沙汰せよとの命令が出雲国衙に出された。これは②前年一二月の大社領の本所号停止の後醍醐天皇綸旨(千家、大社391)に基づくものであった。しかし建武政権の崩壊により、領家雑掌が北朝と幕府に越訴を行い、国造孝時との間で裁判が始まった。その直後の③七月五日後醍醐天皇綸旨(千家、大社398)が出され、大社造営を先例に任せて沙汰せよとの命令が出されているが、こちらは「杵築大社国造館」と使い分けられている。大社領の問題ではないが、建武二年一二月一日には兵革に際して祈祷の丹誠を抽んずるよう求めた綸旨(北島、大社407)が「杵築大社国造館」に出されている。奏者は大膳大夫中御門経季で、③の時点では宮内卿であった。一一月末に尊氏・直義兄弟の誅伐を命じた後醍醐天皇綸旨(軍勢催促状、大膳大夫経季が奏者)が出されているが、無年号のものが多く、この時点ものとして間違いない。本来は一斉に発給されたものであろうが、同日同内容のものとして残っているのはこれ一通である。
 後醍醐天皇は建武三年に尊氏に降伏し、三種の神器を持明院統に渡して光明天皇が八月一五日に即位したが、一二月二一日には密かに吉野に逃れ、自らの退位を否定して、異なる天皇を抱く南朝と北朝が分立する事態となった。これをうけて、関白近衛経忠(氏長者、前年八月一五日に新帝=光明詔により関白補任)が建武四年四月五日に吉野宮に出奔し、参議経季が七月二〇日に参議を辞任している。経季は暦応二年二月には京都に戻り、北朝のもとで本座に復している。
 話を戻すと、後に千家村は山科氏領となっており、この時点ではまだ分かれていなかったことになる。そうなると、孝宗が清孝の跡をうけて本来の神主館を使用していたことぐらいしか合戦の理由は考えられない。領家雑掌の立場としては神主に別の人物を補任して、神主館の明け渡しを迫ることは十分ありうる。これに対して北島貞孝は本来の国造館を利用していたと考えられる。
 出雲孝時が④譲状(北島家文書、大社405)を作成したのが建武二年一一月二日、⑤置文(北島家文書、大社406)は同月一五日である。この時点ではなお建武政権の時代なので孝時は神主であった。⑤は「のりとき」のみだが、④は「こくさうかんぬしのりとき」と署名している。国造の決定権を委ねられた泰孝後家覚日は、自己の所領を子孝景に譲る旨を記した譲状を一二月三日に作成した上で、⑥建武三年六月二日に清孝に神主・国造職と所領を譲る旨、甥の出雲守護塩冶高貞に伝え(北島家文書、大社416)、⑦六月五日には高貞が覚日書状とともに清孝に渡した(北島家文書、大社418)。⑥は孝時の死に伴い出されたものであろうが、その中で前年冬に大社の文書を訴訟のため京都に送り、玉造の僧「めうせう御房」に預け、その受領書を四日に高貞に送ることを述べている。これが後に孝景が清孝との間に返還を約束した文書で、結果的には北島貞孝に渡された。それは不当だと後に千家方の大社神官が申状に記しているが、④の置文、⑤の譲状、⑥覚日書状、⑦高貞奉書=叔母覚日の意向を奉じたものは全て清孝のもとではなく、その後継者となることが決まっていた貞孝のもとに保管された。七月二三日に守護高貞が大社領の下地を国造清孝に打ち渡し、孝景以下の者が抵抗する場合はその交名を注進するよう、日野掃除左衛門入道と富田弥六入道(頼秀)に命じている(北島家文書、大社419)。

2020年10月18日 (日)

神主宛と国造宛5

 その後、配流先の隠岐から戻って天皇に復位した後醍醐天皇が綸旨により元弘三年(一三三三)一二月一〇日に大社の本所号を廃止して国造に大社領を一円管領させた(千家、大社384)事で、領家の立場は失われたが、これは後醍醐が国造からの訴えを受けて認めた結果であった。建武政権の崩壊とともに、幕府と北朝のもとで本所号が復活すると、領家雑掌と国造孝時の間で再び裁判が開始された(建武三年国造孝時申状土代、貞享五年八月日出雲自清覚書所収、大社424)。その中で国造孝時は神主職については正和三年八月二七日付の関東下知状により「御成敗訖」として訴えが認められたかのように主張しているが、実際には「以社領捧神主知行支証」とあり、神主が社領を知行している支証の提出を求められたもので、「両方備進証状から幕府が口入した証拠は分明である」というものも勝訴・敗訴とは無関係である。前述のように同年七月一六日には領家兼嗣が三崎社検校職を補任している。
 建武三年の裁判は領家雑掌孝助による越訴という形をとっているが、これは正和三年の幕府の裁定に対する越訴ではなく、後醍醐天皇による本所号停止に対する越訴であった。孝助は越訴状の中で、大社神主職が領家進止であることが明白であるのに、孝時が幕府の御家人であると号して領家に敵対し、奸訴を致すので幕府での裁判となったこと、孝時が提出した支証は謀書で、進止権を持つ領家に敵対したことを承伏したにもかかわらず、奉行人が孝時に肩入れして正しくない御下知を行ったと批判している。これは孝時が勝訴したとの意味でなく、領家が勝訴すべきなのに奉行人が曖昧な形にして、大社領を神主が知行してきた支証の提出を求めたことを指している。
 領家雑掌孝助は孝時が幕府の御下知に違背し、本所に敵対している証拠として、建久三年に領家が資忠を惣検校に補任し、それが頼朝下文二通によって安堵されていることをあげた。提出されたのは建久二年七月二出雲国在庁官人等が解状を提出して国造孝房を支持したにもかかわらず、領家が資忠を惣検校に再任した際の文書で、国造側は義理と云い、文章と云い不審だとして、過去の裁判で雑掌が一々雌伏したと述べるが、いずれも正しい文書であり、国造側の主張は事実とは考えられない。
 この文を書きながら痛感するのは中世前期分の大社町史史料編並びに通史編の改定版がでないと、歴史の虚像が再生産されかねないことである。北島家文書の新出分の公開を契機に改定版の出版が実現することを期待しつつ、ここで筆をおく。

神主宛と国造宛4

 これに関して、前述の出雲実政関係史料について再確認する。国造側は孝助が実政の関係者であったことにより、実政について関係者に照会したと思われる。その回答が年未詳一〇月二八日沙弥法願書状(千家文書、大社302)であり、副えられていたのが中納言僧都御房袖判預所実政奉御教書(北島家文書、大社301)であった。以前は廊御方から中納言僧都御房に大社領家が交替したと述べたこともあったが、具書の実政奉書の宛所である細引桑原田沙汰人中と大社領の関係は不明であり、訂正する。はっきりしているのは、御教書はその中で後二条天皇の即位に関して「去年御代始検注段米」と述べていることから、正安四年五月二五日のもので、法願書状はそれ以降のものとなる。具体的には国造と領家雑掌の裁判が開始された延慶二年以降のものとなる。元神主実政自身が大社領の雑掌となったわけではないが、裁判において関係者である孝助の援助を行うことは十分あり得るのである。
 文保三年正月二五日には六波羅探題が、去年一二月二五日関東御教書に任せて、大社造営を完了するよう国造に伝えている(千家、大社357)。実際には国造抜きの造営は困難だったため、国造が再び関わったためであろう。元亨三年三月五日関東御教書(千家、大社361)では、大社造営に国衙正税半分を宛てるはずが、予定された石高が確保できなかったため、当座の負担を経替て造営するとの国造の提案を幕府が了承している。後に北島国造貞孝が元亨三年七月二五日の棟上等仮殿遷宮に関する記録を注進しており(北島家文書、大社564)、本来の正殿とは異なる小規模なものではあったが、それから間もない時期に大社遷宮は完了した。これに関して嘉暦二年九月五日関東御教書(千家、大社370)では、文保二年一二月二五日の御教書で大社造営料が一万一千八七〇余石と定められたが、実際に勘定したところ七千五八〇余石に過ぎなかったとして、正応・永仁の例に任せて段別三升米を賦課して造営を行うことが神主に伝えられている。
 国造が神主職を失った可能性を述べたが、国造側の文書にも変化が出ている。徳治二年三月二〇日の出雲泰孝置文(北島家文書、大社346)では「国造大社神主」と署名していたが、一二月五日の譲状(北島家文書、大社347)では神主職を譲るとしながらも「国造兼大社司」と署名し「神主」を使用していない。次いで延慶元年の関東御教書以降は宛名がそれまでの神主から国造に変更されている。文保二年一一月一四日出雲孝時去渡状(千家、大社355)は泰孝置文と矛盾しており後に作成された偽文書である(『出雲鰐淵寺旧蔵・関係文書』ではこの文書を正しいかのように掲載しているが論外である)。前述のように、国造泰孝の死亡が迫った時点で、後室覚日が生んだ子(後の孝景)が国造になれる年齢に達していなかったため、前室が生んだ孝時を当座の国造とし、その後継者は孝時と孝景の子孫の間から選ぶとしたもので、孝時が「国造三郎」(偽作した側の意図は清孝のつもり)に所領を去り渡すことなど不可能である。国造家の分立問題との関係で一五世紀に作成されたものであろう。それはさておいて、元亨四年八月二七日に出雲孝時が舎弟出雲貞孝に大庭田尻内の田屋敷と揖屋庄内平岡谷の田を譲っている(平岡家文書)、大社362)が、その際の署名は「国造兼出雲孝時」であり、やはり神主を使用していない。この時期、国造孝時以外の人物が領家によって神主に補任されていたためだと思われる。領家は文保元年の兼嗣の死により子兼輔(後に通輔)に交替していたと思われる。通輔は正安二年正月に公卿となり正二位参議となったが、正中二年(一三二五)以降、公卿のリストから姿を消し、その動向は不明となる。その子兼藤(後に忠嗣と改名)はその時点で二九才であったので継承は可能であるが、公卿となったのは暦応三年(一三四〇)の事であった。領家の地位低下と大社造営の行き詰まりから国造が神主に返り咲いたのだろうか。

 

神主宛と国造宛3

 幕府の方でも①正安二年閏七月五日関東御教書(千家、大社336)では大社造営奉行として出雲守護信濃二郎左衛門尉貞清、浅〔朝〕山二郎左衛門尉時綱、多祢次郎左衛門尉頼茂の三名が補任され、神主が三名と協力して造営の沙汰を行うよう命令されている。造営奉行は本来は国司が補任すべきものであるが、実質的には体制を一新するために幕府・守護が口入したものであろう。②同三年一二月五日(大社町史、出雲大社文書は十一日とするが松江市史の五日が正しい)の関東御教書(千家、大社339)でも神主に対して造営を奉行して完了するよう命じている。さらに③同四年四月一〇日の関東御教書(千家、大社340)では、正応・永仁年間の御教書に任せて出雲国内に段別三升米を宛課して造営を完了するよう神主に命じているが、④延慶元年(一三〇八)一二月一〇日関東御教書(千家、大社348)では、大社造営について造営奉行である守護佐々木貞清(その妹覚日が前国造出雲泰孝の後家であった)から申状が提出されたことをうけて、国造に対して造営記録を急速に進覧すべきことが命じられている。⑤正和元年(一三一二)五月二〇日六波羅探題御教書(千家、大社349)でも、正月二五日関東御教書を施行して、子細を尋究するため文書=造営記録を帯して不日参洛することが命じられている。
 ③までは国造=神主と造営奉行は協力関係にあったが、④⑤では造営奉行と国造の関係に問題が生じている。④⑤と延慶二年以降、領家雑掌孝助と孝時代定範の間で裁判が開始されているが、それとともに、御教書の宛所が神主宛から国造宛に変わっている。これに関係して正和三年七月一六日に前領家松殿兼嗣が袖判下文(小野家文書、大社353)により虎一丸を三崎社検校に補任している。それに先立ち、嘉元四年八月三〇日信照(松殿兼嗣)書状(国立歴史民俗博物館所蔵田中家旧蔵文書)により、兼嗣が領家に返り咲いていることが確認できる。嘉元三年九月一五日に亀山院が死亡したことと、兼嗣が後二条天皇の第一皇子邦良親王の母五辻宗子の兄親氏を通じて働きかけた結果である。その代償として兼嗣は大社領千家村を一期分として親氏に譲っている。
 領家の交替は神主を独占していた国造と領家との関係を一変させた。前領家廊御方も前任の兼嗣の時期に一旦解任された実政を神主に起用して国造と対立し、結果的には幕府の口入により国造を神主にせざるを得なかったが、大社領について不案内であった廊御方と兼嗣は違っていた。また、国造が主導した大社造営も結果としては進んでいなかった。領家兼嗣は実政の関係者である孝助を雑掌に補任して、国造を圧迫して主導権の確保を図ったと思われる。大社造営が国衙(幕府)方である造営奉行と大社雑掌によって行われることになり、これに反発する国造が造営旧記の公開・提供をこばんだ結果、④⑤の関東御教書が出されたと思われる。そして延慶二年からは国造側の雑掌定範と領家雑掌孝助の間で幕府で裁判が開始された。

神主宛と国造宛2

 永仁五年二月一一日越訴頭人奉書(文書名は松江市史による、北条宗宣が六波羅探題に就任したのは七月、北島国造家文書、大社331)により、大社神主職をめぐる出雲実政との裁判に決着が付き、国造に対抗する存在はなくなったとの佐伯徳哉氏の評価は妥当であろうか。残されている文書の表面のみみればそのような評価も可能だが、二〇〇三年と四年の論文であきらかにしたように、大社関係の文書は取捨選択して意図的に残されている(廃棄される)とともに、一三世紀前半までの年紀を持つ大量の偽文書が作成されている。それを踏まえた上で解釈を積み上げていかなければ、論文のレベルには達しない。最近発見された北島国造家文書の新出分にも幕府関係文書が含まれているとのことで、それを利用すればさらに研究の精度が向上するが、単に文書の表面をなぞったのみの場合と仮説を立てながら分析、検証した場合の違いを以下で示したい。
 文永七年(一二七〇)正月に大社本殿が焼失し、造営が開始されたが、弘安一〇年(一二八七)に遷宮が行われた本殿は規模を縮小したものであった。大社領の領家松殿兼嗣が自らの主導権を確保するため、出雲泰孝を更迭し、請文を提出したであろう出雲実政、次いでその父真高を神主に補任したことに国造は反発し、造営記録の提出を拒否し、造営が進まなかったことと、幕府が口入したことで泰孝の父国造義孝が神主に復帰した。また造営の一方の核である出雲国衙についても、宝治二年(一二四八)の遷宮までとは事なり、知行国主が短期間で交代している。大社造営の行き詰まりは永仁六年(一二九八)五月(北島、大社333)と一〇月(千家、大社335)の二通の関東御教書にも明らかで、その原因は弘安一〇年遷宮と同じく「国衙無沙汰」にあったため、幕府が乗り出して出雲国の正税を造営料に寄せられるべきかとの意見が述べられている。永仁七年三月二九日関東御教書(千家、大社336)によると「神主泰孝」が造営の遅れを訴えた申状が提出されたのを受けて、懈怠無く造営を行うとともに、子細を報告するよう「奉行人中」に命じている。この時点までは国造泰孝が神主であったことと、すでに大社造営奉行が存在したことがわかる。
 正安二年(一三〇〇)以前に比定できる二月九日出雲国宣(千家、大社296)により、大社造営に関する院宣が出され、国衙と社家が協力して沙汰するとともに、番匠下向と作事の次第については旧記に任せて報告するよう国造に命じている。続いて九月二八日には具体的に造営米と庭夫以下の事について命じる伏見院院宣が出されている。正安三年正月に天皇が持明院統の後伏見から大覚寺統の後二条に交替したことにより、伏見院政から後宇多院政にかわった。これにともない、知行国主の交代が行われ、日野俊光に代わって藤原為方が出雲国知行国主となった。同年九月一六日(大社町史、出雲大社文書ともに廿八日としているが、写真で確認すると松江市史の十六日が正しい)には前年の院宣と同内容の後宇多院院宣(千家、大社307)が出され、それが国宣により国造に伝えられている。ただし嘉元元年(一三〇三)四月には知行国主が西園寺公衡に交替しており、国衙による安定した政策の継続は困難であった。同年八月二二日には国宣(千家、大社163)により仮殿造営に関する院宣が出雲国目代に伝えられ、同時に知行国主西園寺公衡御教書(千家、大社345)により、院宣と国宣の内容が国造に伝えられたが、嘉元三年一二月三〇日には藤原致連が出雲守に補任されており、知行国主も交替した可能性が大きい。

 

神主宛と国造宛1

 二〇〇三年と四年の論文で、国造と幕府のそれぞれが、惣検校職と神主職をどのように使っていたかを検討した。大社領の成立以来、補任権を持つ領家は惣検校職を使用するのが一般的であったが、承元二年(一二〇八)にその権限を分割して権検校職が新設されたことにともない、両者の関係が上下ではなく、横の関係であることを明確にするため、惣検校職ではなく神主職が使われる機会が増加した。偽文書を除けば「神主」の初見史料は『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)正月四日条に「出雲国大社神主資忠」とみえることである。ただし、文治二年(一一八六)に国造孝房に代えて資忠を補任した際には「総検校」とみえ、建久三年の二通の頼朝下文にも「惣検校」が使われており、建久元年の「神主」は、原史料には「惣検校」とあったものが吾妻鏡編纂の時点の呼称に変更された可能性が高い。出雲大社文書は寄進した本来の所蔵者名(北島ないしは千家と表記し、北島家文書、千家文書と区別、但し千家と千家文書は本来は両国造家共有文書である)で記す。家譜や後の編纂物にのみ残っているものは所蔵先を省略。
 一次史料としては承元四年に比定できる二月一四日右近中将源実朝書状(千家文書、大社326、大社町史では年次比定が間違っているものが多いので注意が必要。松江市史に収録されたものは修正されている)が初見である。官職からは松江市史の記すように建保四年が下限となるが内容からは承元四年一二月一九日領家御教書写(大社182)に先行するものと思われる。また建久二年一〇月に領家が孝綱を神主并本御領沙汰人職に補任した下文の写(千家写、大社170、発給者を頼朝とするのは誤り)があるが、嘉禄二年七月日領家下文(千家文書、大社205)で補任された出雲政孝を孝綱に書き換えて後に作成された偽文書である。
 論文では国造は惣検校を使うのが一般的であったのに対して、幕府は早い段階から神主を使用していたこと、ならびに国造が幕府と結んで領家からの独立を図る中で、神主を使うことが多くなったことを明らかにした。今回は、幕府の文書の宛所に国造宛と神主宛があることに注目し、その違いからその背景にある歴史的事実を明らかにしたい。自らも神主を使うことが多くなった国造であるが、一四世紀初め以降、「神主宛」ではなく「国造宛」と記した関東御教書が増えている。当方の研究により大社の研究環境は飛躍的に改善したはずなのに、その後も依然として「昔の名前で出ています」レベルに留まっている論文も存在する。

 

2020年10月17日 (土)

美福門院姉の夫

 久しぶりに自室でさがしていた角田文衛氏『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書版、1985)に遭遇したので、気になる箇所を確認している。その一つが藤原長実の後家が源師時に語った『長秋記』の記事である。長実の子達が冷遇されたことを述べていたが、得子の姉である「故金吾妻」についてである。氏は「故佐〔左の誤植ないしは不用か〕衛門佐某の後家」と記している。そこで「金吾」について再度確認すると「執金吾」の略との事で、衛門府の唐名とある。実例として日蓮の有力檀越四条中務三郎左衛門尉頼基が「四条金吾」と呼ばれたことと、左衛門督小早川秀秋が「金吾中納言」と呼ばれたことが挙げられている。一〇世紀半ばに紀貫之が編んだ『新撰和歌』序には古今集について「伝勅者、執金吾藤納言」とあり、天皇の命令を執金吾納言が伝えたことがわかる。久安元年一〇月四日に出雲国に下された官宣旨には「権大納言雅定宣、奉 勅」との表現があるが、このような立場の人であろう。
 源雅定は村上源氏雅実の二男で中院(久我)家の二代目の人物である。ということで、古今集の執金吾納言は左衛門督を兼任していた人物であろう。以上により「故金吾」とは当方が比定した故左衛門督德大寺通季で問題はなく、角田氏の比定=左衛門佐某は誤りである。
 源雅定は兄顕通が四二才で死亡し、嫡子雅通は五才にすぎなかったため家を継承し、甥の雅通を養子にしている。右衛門督、左衛門督をへて保延六年には藤原頼長の後任として権大納言とともに左大将を兼任していた。この時の左大将の人事をめぐっては、閑院流の三条実行(二男)、德大寺実能(五男)も左大将補任を希望しており、崇德天皇の判断に時間がかかる中、鳥羽院が天皇に直談判して、自らの推薦する雅定を左大将としたいわくつきの人事であった。崇德天皇の退位は、躰仁内親王の誕生とともに、二〇才をこえ自らの判断が可能となった崇德と父鳥羽の衝突を回避するためのものでもあった。待賢門院の同母兄で最年長であったのは三男德大寺通季であり、異母兄弟を含めて昇進が最も早かったが、通季と異母兄で長男であった実隆が死亡したため、待賢門院庁の発給文書では一六才年長の二男実行、五男実能の順に署判を加えていたが、両者の関係は微妙であった。

北島家文書と千家文書3

 ⑪⑫に関連するのが、⑬文治元年一一月三日出雲国司庁宣であり、これも同時期に作成された偽文書である。これに対して⑭安元二年一〇月日出雲国司庁宣は国造家内部での相続争いを背景に作成されたものである。その前提としては神主と国造の兼帯があるが、兼帯する宗孝が国造を一族の兼経に一時的に譲り、国司がそれを容認することはありえない。⑮元暦二年四月日出雲宗孝譲状(千家文書)は孝房が惣検校職のみを父宗孝に譲っているが、国造職は前述の⑬国司庁宣で補任されている。⑭と関係するのが⑯建久五年三月二一日付の出雲孝房譲状と⑰三月に比定される出雲国在庁官人等解とである。国造職と惣検校職の両方と所領七箇所を子孝綱に譲っている。⑰は国造職をめぐる宗孝の子孝房と兼経の子石王冠者の対立について述べるが、宗孝は兼忠から神主職を譲られ、神主職に付く職である国造職を兼経に一時的に申し付けたと述べ、⑭と同じ時期に作成されたものである。その前提として神主が国造を兼帯するとの理解がある。神主と国造の兼帯が強く主張されたのは⑱弘安四年三月日国造義孝造営之次第注進状からで、兼帯しなければ造営・遷宮を遂げた例はないと述べている。
 以上により、⑭⑯⑰は⑱の作成時期に偽作されたものである。⑪⑫⑬⑮は延慶二年以降に領家雑掌と国造の訴訟が行われる中で国造が偽作したものである。この訴訟の領家雑掌が領家による神主補任を安堵する頼朝の下文二通を出してきたのに対抗し、且つ⑪⑫を補強したのが⑨⑩であった。
 北島国造家に残された文書は頼朝の袖判を持つ⑨のみで、⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯は共有文書として残された。これに対して⑰は両国造家ではなく、北島国造方上官佐草家文書として残された。⑰は⑭と関連する一方で孝房の親父宗孝が元出雲氏で兼忠の嫡子として相傳文書を相副えて大社神主職を譲り得たとする非論理的表現があるため、国造家文書としては残されなかった。それは建武三年の孝時申状が国造家文書としては残されず、千家から佐草家に養子に入った佐草自清覚書の中に引用されて千家文書として残ったのと同様である。

 

2020年10月16日 (金)

北島家文書と千家文書2

 ⑥に関係する文書としては元徳元年一〇月二九日に幕府問注所(松江市史通史編、西田友広氏による)が三名連署で、大岡雲平次入道了一が買得した所領の安堵を申請したことに関して、了一が御家人であるかが問題となり、その曾祖父国造孝綱が美談新庄、乃白郷、田尻保等の地頭である御下文を帯していることが問題となった。問注所が国造の一族である崎田(揖屋庄内の地名を名字としている)孫三郎に対して、了一の父が三郎実基、祖父が田尻三郎孝基、曾祖父が孝綱ということだが、孝綱が幕府の御家人として御下文を帯していたか、了一が孝綱の内戚曾孫として零落していないかについて起請の詞を載せた上で事実であるか報告するとともに、孝綱が与えられた御下文と代々手継安堵以下の証文を備進することを命じている。同じ性格の文書は大野庄東方縁木村田屋敷を大野縁木小二郎が沽却したにもかかわらず、渡されない等が発生したとして豊島弥太郎が訴え、幕府問注所が三名連署で、縁木小二郎に対して豊島弥太郎の主張が事実がどうか説明するため参上することを命じている。
 了一が所持していた文書で問題となったのは⑦承久元年一一月一三日関東下知状(千家文書)であり、孝綱に四箇所地頭職を本の如く知行せよとして安堵しているが、所領名(美談新庄、大庭社、田尻保)の表記に問題があり、後世に作成されたものである。⑧建保三年七月日左兵衛尉源某下知状(北島家文書)にも「田尻・大庭」とあり、これも関係文書であろう。一般的には「大庭・田尻保」と表記される。それはともかく、神魂社領に対する守護所使乱入が停止され、殺害以下の刑事事件は国造殿=孝綱の沙汰として召し出す権利=守護不入を認めている。⑥⑦⑧の三通の偽文書が元徳元年以前に孝綱流の関係者により作成されたことは確実である。この内⑥と⑧は建武三年の領家雑掌と国造の裁判の証拠として利用され、北島家文書となったが、⑦はその裁判の証拠とはされず、共有文書として残されていた。
 関連文書でありながら、所蔵先が分かれているのが、⑨元暦元年一〇月二八日源頼朝袖判下文、⑩同年一一月二九日平朝臣某(土肥実平)下文、⑪文治二年正月日平朝臣某(土肥実平)下文、⑫同年二月九日平朝臣某(梶原景時)下文である。⑨のみが北島国造所蔵で⑩~⑫は共有文書である。いずれも後世に作成された偽文書であるが、⑪⑫により頼朝下文を施行したのが⑪で、両者をうけて出されたのが⑫である。誰でも思うのは何故頼朝下文を偽作しなかったのかということである。それはともかく、⑪⑫が『吾妻鏡』文治二年五月三日条に「出雲国杵築大社総検校職事。停止出雲則房。以同資忠令計補給云々」とあるのをうけて、これに先立ち頼朝が国造孝房を総検校(神主)に補任したはずであるとの理解に基づき作成されたものである。
 これに対して裁判で領家側は、領家藤原光隆が資忠を神主に補任するとともに、資忠が御家人であったため、頼朝がその補任を安堵した文書を提出した。頼朝の文書は前右大将家政所下文と頼朝袖判下文であり、建武三年の孝時申状土代に引用された内容から復元することができる。国造側が頼朝・幕府が神主を補任したと主張したのに対して、領家は自らが補任し、幕府は安堵しただけであると主張した。当然、領家側の主張が正しい。この主張が対立したのは延慶三年から開始された裁判においてであったが、幕府滅亡により裁判が中断する中、後醍醐天皇が大社領の本所号を廃止したのである。その後、建武政権の崩壊で、裁判が再開された中、国造側が⑪⑫を補強するものとして作成したのが⑨⑩であった。いまさら頼朝が神主を補任した文書は出せないので、その代わりに頼朝が大社神官等に濫妨の停止を保障するので社務を信仰するよう命じたのが⑨で、それを平朝臣某(土肥実平)が施行したのが⑩であり、これにより⑪⑫のみでは根拠に乏しいかったものを補強したのである。ただし、頼朝の袖判は元暦元年一〇月時点のものとは事なり、その文言にも不安定さがあるように、明白な偽文書である。土肥実平と梶原景時はいずれも頼朝の重臣であり、鎌倉初期に実平は備前・備中・備後の惣追捕使(守護)である、景時は播磨・美作の惣追捕使であった。両者の関係は水平的関係であり、実平の下文を景時が施行することは考えにくい。花押についても土肥実平の花押はこれ以外に残っておらず、「二郎」であることを示す花押であるがその真偽は不明である。

北島家文書と千家文書1

 大社関係文書には、相互に関連する文書でありながら所蔵者が両国造家に分かれているものがある。分立前の年紀を持つ千家文書が本来は両国造家共有の文書であるので、以下では「共有文書」と記すが、北島家文書と共有文書の区分に理由があるはずである。応安三年八月二八日杵築大社神官等連署申状(千家文書)の中で「号貞孝所得文書」について述べている内容は、北島家が所蔵する文書の背景の一端に触れているが、なぜそれを北島家が入手したかが問題である。康永二年に領家との訴訟のため携行した文書を質入した孝景が、質から出して取り戻すことという和与状を清孝と結んでいるが、返されたのは北島貞孝に対してであった。同様に、孤峰覚明が清孝に与えた袈裟も北島方が保存してきた。同時に設けられた神宮寺が清孝の私的なものであるとの井上寛司氏の解釈には何の根拠も示されていないが、そうであるならば清孝から譲られたと号している孝宗方が所持しているはずである。実際には神宮寺は大社の公的なものとして北島国造が管理し、一七世紀半ば過ぎまで大社境内に存在したものである。前にも述べたように、雲樹寺にも杵築大明神が勧請されており、これまた公的なものであった。
 話を戻すと、貞応三年から文暦二年にかけての大社文書(明白な偽文書は除く)のうち、権検校真高に関するものは後に権検校職を継承・世襲した平岡家が所蔵している。これに対して①嘉禄二年七月出雲政孝を神主等に補任した領家袖判下文は共有文書で、②文暦二年閏六月八日領家袖判奉書(領家重隆が公卿でないため御教書を奉書に修正)と③同年九月日領家袖判預所下文は北島国造が所蔵している。承久の乱以前の文書であるが、④建暦三年八月二一日領家御教書(領家雅隆は公卿)、⑤建保二年八月日本家土御門院庁下文も北島国造が所蔵している。さらに、当該期以降の年紀を持つ偽文書であるが⑥嘉禎二年六月五日関東御教書も北島国造が所蔵している。
 ①は国造家が領家から神主に補任された文書では現存最古のものであるが、これにより神主を幕府以外=領家が補任していたことが明らかとなるので、領家との裁判には絶対提出してはいけないものである。一方、②は大社造営を神主に命じ、③は義孝が神主として造営沙汰を行うことを神官・百姓に伝え、義孝に従うことを命じている。きちんと分析すれば②の神主は③で種々奔走したとされる真高であり、③によって義孝が神主に返り咲いたものであるが、研究者の多くが気付かなかったように、ともかく神主が造営を行っていたことを主張できるものである。花押の主についても研究者が気付かなかったものであり、これが領家重隆のものであることはわかりにくい。実際に嘉禄年間の重隆の花押と少しうける感じが異なり、父雅隆の花押に似ている。④は領家雅隆の発給文書であるが、神主に所領の支配を認めたものであり、これまた研究者はこの神主が中原孝高であることに気付かなかった。⑤は領家ではなく本家が国造孝綱を神主・惣検校に補任したもので、領家が補任権をもつ体制下では効力はなかったと思われるが対領家の裁判では有効であった。
 ⑥は微妙な内容を持ち、国造孝綱の子経孝が神主職補任を幕府に求め認められたものである。なぜか正しいものとされてきたが、二〇〇四年の論文で示したように宛所がないこと、「鎌倉殿仰」という表現、「官職」+平という表現は、いずれも関東御教書ではありえないものである。さらに署判者のひとりとされている連署北条時房はこの文書が発給される3ヵ月前に修理権太夫に補任されており、この文書が後世に作成された偽文書であることは明白である。微妙な内容とは、幕府が神主を補任できる証拠となる一方で、国造職が孝綱の後は弟政孝が継承し、次いで政孝の子義孝が国造となっているのに対して、孝綱の子経孝が神主に補任されていることで、③で義孝が領家から神主に補任されたことと矛盾している。⑥は国造職をめぐり政孝系と対立する孝綱系の人々が作成した偽文書でありながら、幕府が神主を補任できた証拠として残されたものである。

2020年10月14日 (水)

源隆保の生年について

 崇德院の子覚恵の母の同母兄弟である源隆保について、弟と推定した。覚恵の母は一一五一年に覚恵を産んでおり、遅くとも一一三〇年代前半には生まれていたことになる。崇德、聖子、兵衛佐局より一〇才程度年少であろうか。
 隆保の終見史料は建仁三年(一二〇三)六月二五日に、土佐国への配流処分が解除されて本位に復したものとの見解がWikipediaに記されている。頼朝の死亡直後に一条能保・高能父子(両人ともすでに死亡)の遺臣が土御門通親の襲撃を企てたとして、後藤基清外三名が逮捕され、能保と関わりの深い隆保も関与したとして土佐に配流された。
 隆保について編纂所の大日本史料データベースで検索すると、藤原隆保の記事と混乱がみられるが、一つ一つ確認すると、復位以降の記事が若干ある。建仁三年一〇月一日には近江国が源兼定(鎌倉幕府と密接な関係を有した雅頼の長子)に与えられているが、それは復位後に同国を与えられた源隆保が八月二四日に辞退したことをうけてのものであった。兼定は五五才であるが、この翌年に左少弁、二年後に従四位下であり、非参議公卿となったのは承元四年(一二一〇)であった。幕府との関係での国主であろうか。国守には子兼平が補任されている。当初の隆保の人事も幕府との関係であろうか。
 『明月記』元久元年(一二〇四)九月七日条には、訪問先(中納言殿)で隆保朝臣の妻が死亡したことを聞いたことが記されている。妻は定家の異母(近衛院備前内侍=源季兼妹)姉で、年少時より隆保の妻となり、隆保が死亡した際に出家したことは聞いていたが、未だあったことはないとしている。中納言からは定家は軽服となるのではないかとして、除服の手続きをとるように言われ、退出している。藤原隆季の子隆保は建久八年三月に従三位公卿となり建在であるので、隆保とは源隆保である(建仁二年四月二三日条にも源隆保妹と妻が確認出来る)。隆保は復位後間もなく死亡したことになる。隆保は配流の時点で左馬頭兼安芸守だったが、左馬頭は建久五年正月に一条高能から譲られたものであった。隆保の経歴は文治二年に能保の知行国主讃岐の国守に補任される以前は不明だが、その妻は二条院兵衛督とも呼ばれ、二条天皇の女房でもあった。
 源季兼は摂関家家司として豊後守、対馬守、石見守を歴任し、能登国若山庄を皇嘉門院に寄進したことでも知られているが、その娘が日野氏惣領資長との間に久安元年(一一四五)に嫡子兼光を産んでいることからすると、源隆保とその妻は一一四〇年代前半には生まれていたと思われる。一条能保、源頼朝よりは年上であったことになる。

2020年10月13日 (火)

源義朝の政治的立場

 源義朝・頼朝父子と崇德院との間の関係を強めたのは、仁平元年(一一五一)に頼朝の母の姉(熱田大宮司季範の娘)と源師経の間に産まれた娘である三河権守(父師経の官職による)が崇德院の皇子(出家して元性、後に覚恵)を生んだことであろう。この年九月二八日の除目で季範の子範忠が民部少丞から式部丞(正六位上相当の大丞であろう)に昇進している。範忠の生年は不明だが頼朝の母の同母弟であろう。
 久寿二年(一一五五)八月(旧暦)に近衛天皇が死亡するまでは、鳥羽院の後継として治天の君となるのは崇德院であろうと多くの人が思っていた。仁平三年三月二八日の除目で頼朝が叙爵とともに下野守に補任され、季範の子式部丞範忠が叙爵したことの背景が判明した。義朝と近衛天皇中宮呈子に仕えていた常磐との間に最初の子である阿野全成が生まれたのは仁平三年であり、その関係はその前年にまで遡る。仁平二年一〇月以降、呈子が妊娠したとの期待が増大し、一二月には呈子は産所となった藤原季行宅へ退出した。季行の同母兄季兼(敦兼子)は中宮亮として呈子に仕えていた。ところが一一五三年三月になっても出産とならず、九月には妊娠は誤りであった結論付けられた。まさに近衛天皇の皇子誕生の可能性が潰えた時点で、崇德院皇子の関係者である義朝と範忠の叙爵と任官が実現した。崇德天皇との関係が義朝を後押しした。この除目を主導したのは義朝の母の年上の従兄弟で実質的庇護者であった参議藤原清隆である。
 頼朝の同母弟希義は仁平二年の生まれとされるが、同母妹坊門姫は久寿元年(一一五四)の誕生である(一一四五年では一一九〇年に難産によって死亡した際の年齢が四五才と高すぎるとの角田文衛氏の説に同意する)。坊門姫の娘で九条良経(一一六九年生)との間に道家、教家、立子を生んだ女性について仁安二年(一一六七)生との説(最初と最後の出産との間が二三年というのも長すぎる。何が根拠なのか未確認であるが、没年も一二〇〇年とある。同年一二月九日には良経の母兼子が死亡し、良経が母儀で一二〇一年二月一一日に復任している)があるが、建久三年(一一九二)生まれの立子が長子であることから、一一七〇年代前半の生まれではないか。坊門姫と一条能保の間に産まれた嫡子高能は安元二年(一一七六)生まれである。頼朝や坊門姫を生んだ季範の娘は平治元年(一一五九)に死亡している。
 系図では季範には待賢門院女房となった女性がいたとされるが、両者を結びつける存在として熱田神宮が所在する尾張の国守に注目すると、大治四年(一一二九)二月から長承三年(一一三四)正月まで在任が確認できる藤原顕盛が注目される。大治二年正月に父長実から修理大夫の地位を譲られたが、白河院の権力を背景に鳥羽院の要望を握り潰したことの報復として、白河院が没した翌大治五年四月二六日に修理大夫を解官され、一旦は六月二〇日に復任したが、一〇月五日には修理大夫を希望した院近臣藤原基隆と交代させられた。白河院が没した直後の大治四年八月一六日に更新された待賢門院庁の別当に顕盛も含まれており、季範の娘が待賢門院女房となるのを可能としたのは尾張守顕盛であろう。ただし顕盛は尾張守在任中に死亡し(その後、尾張国は忠実の知行国となる)、公卿になることはなかった。顕盛の前任も長実の子長親で、長実は美福門院得子の父としての側面が強調されるが、待賢門院・崇德天皇とも強いパイプを持っていた。
注:関係者の生年、年齢で混乱があり(特に範忠と義朝の長幼)、訂正した。一条能保の母は德大寺公能の娘とされるが、公能と能保はギリギリ可能ヵという三二才差であるなど判断が難しい。

2020年10月12日 (月)

藤原教長と崇德院2

 永久の変で失脚した輔仁と源師忠の娘(隆暁の祖父師隆の姉妹)との間に生まれた有仁は左大臣となったが、後継者のないまま久安三年(一一四七)に四五才で死亡した。この有仁に源行宗と藤原(日野)有隆の子達が使えていた。益田氏系図で初代とされる国兼も事実ではないが有隆の子とされていた。有隆の子有義、有遠、有範、季隆はいずれも花園左府勾当であったとされている。前述のように彼らが有仁の死後、行宗の養女となっていた兵衛佐局との関係で崇德院に仕えた可能性を指摘した。
 義朝の母方の祖父忠清の関係者には有仁、待賢門院、皇嘉門院、八条院に仕えた人々がみえる。忠清の子行俊は待賢門院蔵人となり、花園左府女房であった女性(橘清信の娘)との間に生まれた清定は八条院蔵人となっている。忠清の娘が年上の従兄弟清隆の庇護のもと為義の室となり義朝を産んだことは前述の通り。行俊の兄弟清兼の子康俊は待賢門院蔵人、惟清は左大臣勾当、清俊と清時は皇嘉門院蔵人である。また清兼の娘は源師行との間に有房を産んだが、有房は有仁の養子となっていた。以上の点を踏まえれば、有仁の死後、彼に仕えていた人々が待賢門院の子崇德や、崇德の中宮皇嘉門院聖子に仕えた可能性は大きいといえる。
 本ブログでは待賢門院・崇德流の人々は保元の乱後は非後白河院の立場を取ることが多かったと考えている。具体的には二条天皇派であったり上西門院に仕えた。上西門院女房であった滋子が高倉天皇を産んで建春門院となると、その女官に移動した人々も多数いた。また、待賢門院と美福門院を対立者としての側面のみ見るのでは不十分である。美福門院の子姝子が待賢門院の子統子内親王(上西門院)の養女となったことを契機につながりがうまれた。義朝の子朝長が中宮(姝子)少進となり、頼朝が立后された統子内親王の皇后宮権少進となり、院号宣下後の上西門院の蔵人、さらには二条天皇の蔵人となったことは矛盾しない。いずれも非後白河院派である。
 頼盛と八条院女房大納言との間に嫡子光盛が誕生したのは承安二年(一一七二)で、両者の間に関係がうまれたのはこの少し前からであろう。頼盛の娘と持明院基家(母は上西門院一条で、上西門院因幡との間に嫡子基宗が生まれている)の間に保家が誕生したのは仁安二年(一一六七)であった。頼盛は姝子が内親王となった際に家司としてみえ(一一五四、五六年)、平治の乱後は二条天皇の求めにより異例の再入内をした大皇太后多子の大宮亮となったように美福門院・二条天皇派であった。

藤原教長と崇德院1

 前回の記事に対して、なぜ兵衛佐局が頼朝の御親戚と呼ばれたのかとの疑問は解消しないとの声が聞こえるかもしれないので、さらに調べてみた。過去に書いた記事は忘れがちであるが、その関連情報が確認できた。
 寿永三年四月一五日に崇德院と頼長の除霊のための施設(後の粟田宮)が建てられ、遷宮が行われた(『吉記』)。卜部兼友が社司に、その他僧官が補任された。兼友の曾祖父兼国と待賢門院に登用された兼仲の曾祖父兼親が兄弟である。兼友の子孫が粟田宮俗別当を継承していく。『吉記』には故入道教長が安元三年頃から天下擾乱を鎮めるため両人の除霊を主張し、朝廷に働きかけたことが記されている。その際の蔵人頭が藤原光能であった。また教長について「彼院御寵女兵衛佐猶子也」と注記が加えられている。
 崇德院以外に両者をつなぐものを確認すると、教長は忠教と源俊明の娘の間に生まれている。待賢門院庁と鳥羽院庁の両方の筆頭別当となった能俊の姉妹が教長の母であった。教長誕生時に忠教は三四才、能俊は四〇才であり、妹となる。忠教の正室は源季宗の娘で、その間に生まれた忠基が忠教の嫡子であったが、季宗は兵衛佐局を養女とした行宗と後三条との間に実仁・輔仁両親王を産んだ基子の同母兄であった。そして兵衛佐局の父信縁(藤原季実の子)と行宗の正室(藤原季仲の娘)は従姉妹であった。行宗が死亡した時点で教長は三五才で参議であった。兵衛佐局はその四年前に重仁を産んでおり、教長より一〇才程度年下であった。死亡した行宗に代わって兵衛佐局を猶子としたのが教長であった。
  『台記』の記事からすると、教長は大変な教養人であり、出世・権力欲は薄い人物であった。教長の父忠教は中宮(聖子)大夫をつとめたが、その子教智は崇德御願寺成勝寺に摂津国難波庄を寄進している。一方、崇德院には源師経の娘との間に生まれた子覚恵がいたが、熱田大宮司季範の娘と師経との間に生まれた隆保が、讃岐国知行国主一条能保のもとで国守に起用されている。頼朝の母と覚恵(1151-84)を産んだ崇德院三河権守局の母(師経の娘)は姉妹で、頼朝と隆保・三河権守局は従兄弟であろう。頼朝が兵衛佐局を御親類と呼んだ直接的理由は崇德院の子を産んだ女性との意味と理解できよう。前述のように能保と隆保はともに源俊隆の子隆暁の養子となっていた。
 隆暁は仁和寺寛暁(堀河天皇の子)のもとで出家し、東寺二長者になり、元久三年に七二才で死亡している。養和元年の飢饉の記事であろうが、『方丈記』には仁和寺の隆暁法印が多数の人々が餓死するのを悲しんで、額に「阿」字を書いて縁を結ばせようとした。人数を知ろうとして京の四月と五月分を合計したら四万二千三〇〇余りとなったとして、長明は崇德天皇の長承年間にもこのようなことがあったと結んでいる。そして仁和寺の隆暁のもとに弟子入りしたのが頼朝の子貞暁(大江景遠が乳母夫となった)であった。当初は父の義弟一条能保に付きそわれて入室し、「能寛」と名乗っていた。頼家の子で叔父実朝を暗殺した公暁は上洛して園城寺の公胤の弟子として入室し、異母叔父貞暁の受法の弟子となった。以上の点も覚恵の母は隆保の同母姉であることを示している。

2020年10月11日 (日)

院政期出雲国政治史補足2

 德大寺家は頼朝が平家を滅ぼすまでは不遇であった。それが文治元年一二月に頼朝の推挙した議奏公卿に含まれたことで、急速に昇進した(頼朝の同母妹坊門姫を妻とした一条能保も同様であった)。そして自らの知行国美作国の目代に頼朝の側近となった梶原氏を起用した。これについて、梶原氏と德大寺氏の関係が背景となったとの説があるが、誤りで、頼朝と実定の関係により梶原氏が起用されたものである。頼朝は崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局を御親戚と呼び、崇德院の最側近日野資憲の子親光を御外戚と呼んでいるように、待賢門院・崇德院流に属していた。角田文衛氏は「御親戚」から兵衛佐局が頼朝の母の姉妹(熱田大宮司季範の娘)との系図を作成してしまった(『王朝の明暗』)が、飛躍しすぎた説である。明確な記載はないが、頼朝の母方、父方の両方について検討する必要がある。角田流でいけば、親光(母は不明。一時平家の圧迫をうけ高麗にわたるが、頼朝が家臣を派遣して都、さらには鎌倉に迎えた)の母まで季範の娘となってしまう。にもかかわらず、本郷恵子(つれあいの和人氏より高い評価を受けている)氏まで角田説を引用し、「熱田大宮司家にとって信縁=法勝寺執行、兵衛佐局の実父は中央政界や内廷に接近するための足場として重要な意味を持った可能性がある」(『怪しいものたちの中世』)と記す有様で、こんな事をしていると、源為義が義親の子とする説や崇德が白河の子とする説のように根拠なき誤りが通説になってしまう。角田氏は外に思いつかないから苦しまぎれに述べただけである。
 話を戻すと、佐伯氏は能盛について「一族は歴代西国国守を輩出しており、兄弟の信盛が従五位下石見守、兼盛が周防守、伯父成景が因幡守で、出雲の近国の国守を務めた官歴の持ち主たちであるので、能盛の任出雲守もこの地域と一族との縁故が背景にあったかもしれない」と無意味な事を述べている。『尊卑分脈』にはそのような記載がないわけではないが、史料批判が必要である。信盛の系図上の位置づけは系図により異なり、能盛の兄弟であるか、従兄弟であるかは決めがたい。兼盛は平盛子が死亡した際に、後白河院が摂関家領を後院領として支配しその預に補任した人物であるが、その直後の平氏のクーデターで手首を切られている。『玉葉』には前大舎人頭兼盛が白川殿(盛子の事)倉預に補任されたと記され、兼盛は周防守に補任されたことはない。これは能盛が出雲守から周防守(これも後白河院分国)に遷任したことを誤って記したものである。この能盛の系図には混乱が多々みられ、検討なしに利用できない。藤原成景が因幡守に補任されたのも事実ではない。当該期の国守・知行国主はすべて確認でき、成景が入る隙間はないのである。
 結局のところ、佐伯氏は院政期について論じる十分な準備もないまま、思いつきを述べてしまったのである。当方は二年前から待賢門院分国を明らかにしたいが、研究している人もいないので、自ら日記や関係文書を読み始めたことによって、以上の点を述べることができるようになった。戦国期が専門という人が多いが、専門といっても二年程度学べば達するレベルである。自己の専門にこだわっても仕方が無い。新たな専門分野を作るべきである。

院政期出雲国政治史補足1

 義親の乱について補足したが、高橋昌明氏の見解にも言及しておく。前回は嘉承二年六月二〇日に「流人義親事」について、その配流処分の解除とともに、隠岐から脱出したことへの対策の可能性を述べたが、後者であれば同年年末から翌年初めにかけてのように、『殿暦』(一二月十九日条が初見)や『中右記』に関連記事がいくつも残るはずである。大宰府での濫行摘発から隠岐配流までも詳細な記事が残っている。ということで、後者の可能性はなかろう。義親は隠密裏に隠岐を脱出し、大江匡房の側近である出雲国目代に対するテロを実行した。そのことにより隠岐脱出も判明し、大騒ぎとなったのである。
 高橋氏は平正盛が一月六日に出雲国に到着し、一九日に鎮圧の第一報が届いたことと、出雲国と都の間の輸送にようする期間を勘案して、一六日以前に義親の誅殺が完了していたとし、一〇日余りを要したとしている。勝負は一戦のもとに決したとみてよいとも述べている。正盛からの報告は「為追討使今日六日罷向出雲、切悪人源義親首幷従類五人首了、来月上旬可上洛、且言上」とあり、正盛の報告書が一月六日付であることは明白である。
 義親の乱の実態とその後の影響について述べた佐伯徳哉氏の評価が事実に基づかないものであることを述べたが、氏は当該期知行国の実態(中味というよりも知行国主と国守が誰であったか)を知らずに論じている。氏は家保が出雲守に補任されたことと、兄基隆が播磨守、その子隆頼が三河守であったとの関連を指摘しているが、すでに述べたように、家保の養父大江匡房が在任一年の備後守からの遷任を要求し、認められたものであった。その前例に基づき、基隆も三河守に補任されたばかりの子隆頼が伯耆守に遷任することを望んだが、その要求は認められず、隆頼は三河守を二期八年務めた後に、顕頼の後任として出雲守となった。基隆が望んだ伯耆守には過去に白河の最愛の娘郁芳門院の分国であった淡路国の国守であった橘家光が補任された。家光は嘉保二年正月に女院御給で従五位上に叙せられ、翌三年正月に淡路守に補任されたが、女院は同年八月に二一才で死亡しており、遅くとも翌年には淡路守を退任したと思われる。その後は中務少輔、白河院判官代としてみえ、次いで中務大輔に進み、従四位上となったが受領には補任されていない。家光は任官した人物が慶賀のため白河院のもとを訪れた際には取り次ぎをつとめており、白河の近臣であった。その要望を受け、伯耆国を自らの分国として家光を二期八年で尾張国に遷任した高階為遠(この人事も異例として中御門宗忠は批判)の後任の国守に補任したのである。元永二年六月二八日には「故伯耆守家光」とみえ、二期八年在任し、その後まもなく死亡したことがわかる。
 佐伯氏は「補論1 建久の大社造営とその政治的背景」(『中世出雲と国家的支配』所収)で建久の造営について述べているが、肝心の事実確認をせずに誤った情報に基づき述べている。造営を担った知行国主藤原朝方が後白河院の信頼厚い側近中の側近というのも、事実に基づかない勝手な評価である。朝方が本来、二条天皇派であったことはすでに述べた。また、後白河近臣藤原能盛を出雲守に起用するため(その背景には最勝光院領大野庄の立券があった)、出雲国を院分国とし、朝方・朝定父子は石見国に追いやられたのである。「朝方が知行国主であった安元元年の仮殿遷宮時点の出雲守は藤原能盛で」というのも意味不明である。承安二年の顛倒、安元元年の仮殿遷宮など存在しない。朝方が德大寺公能(後白河の従兄弟)の娘で、後白河に入内した忻子(女御→中宮→皇后→皇太后)の皇太后宮権大夫に補任されたのは前任の藤原顕長(異母兄顕隆の子で、顕頼の異母弟)が死亡(1167)したためであった。大夫は公能の嫡子実定、権亮は実定の同母弟実家であった。
 忻子(母は藤原俊忠の娘豪子)の入内は崇德院支持勢力の実能・公能父子を切り崩すためであり、忻子は後白河との間に子をなすこともなく、後白河の没後一七年たった時点で七六才で没している。朝方が権太夫から大夫となったのは前任の藤原俊成(俊忠の嫡子)が出家したためで、その際に権太夫となったのが俊成の同母兄忠成の嫡子光能(その力量から後白河に登用されたが、光能が後白河をどう思っていたかは別物)であった。

2020年10月 9日 (金)

一〇月の近況から

 早くも一〇月に入って九日目である。日本社会の劣化をうかがわせる事例は等比級数的に増加していると感じる。特に男性に限ってではあるが。
 日本学術会議をめぐる問題に関する記事では、これが裁判官の任用にまで発展する可能性を指摘した意見が注目された。最高裁長官は内閣の指名に基づき天皇が任命するが、最高裁のその他の判事は内閣が任命する。といっても実際には一九七〇年代以降は裁判官出身六人、弁護士出身四人、検察官出身二人、行政官出身二人、法学者出身一名という構成で選ばれ任命されている。欠員が出た場合は同じ出身者から選ばれることが通例である。
 弁護士枠は東京弁護士会、東京第一弁護士会、東京第二弁護士会から各一名、大阪又は兵庫県弁護士会から一名就任することが多い。例外が三名あり、弁護士出身ではあるが、田中、福田、安倍内閣の推薦で任命された。福田内閣の推薦を受けた人物は保守・タカ派として知られ、内定時に話した憲法見直し論が物議をかもしたが、任命式の会見では「憲法を守って職責に尽くす裁判官という職務についた以上、これからは憲法を守る立場で仕事に当たる」と話したとされる。司法権の独立という観点が最も重要であるが、その意味で最悪の長官が第二代長官田中耕太郎である。個人の信条以前の問題として田中は文部大臣、貴族院議員、参議院議員をへての長官就任であり、三権分立に違反していた。国益違反は数々あるが、最悪のものは砂川事件で地裁により違憲判決が出された際に、こともあろうがアメリカ大使と密談を重ねた上で、政府の飛躍上告を受け入れ、統治行為論で判断を回避しながらも合憲として、下級審への差し戻しをした事と、第三次吉田内閣が憲法第七条に基づきおこなった抜き打ち解散により失職した議員が、解散後の総選挙に立候補しなかったため、自分は憲法違反の解散により在任期間を奪われたとして訴えた裁判で、統治行為論に基づき判断を回避した事である。日本の占領が終了したのは一九五二年四月二八日であるが(沖縄、南西諸島、小笠原諸島が残っており、完全独立ではない)、その前にも吉田内閣は憲法七条による解散は可能かをGHQに問い合わせたところ、憲法違反だと言われて断念していた。明白な違反であるのに、判断を回避したのが田中耕太郎であった。これが現在の無能内閣にアウトローな権限を与えてしまった。
 学術会議へのコメントは次第に会議への批判のコメントが増加しているそうだが、そのほとんどは根拠無き感想であり、きちんと勉強してから発言すべきである。考えることを放棄し、最初からある結論にへりくつにもならない理屈や誤った論を付けて述べている。正しく判断する能力が付いたかどうかの試験があればすべて落第の御仁で半人前以下である。言うならば「なんとかの一つ覚え」であり「はだかの王様」だ。そういうと「なんとか」と「王様」からあんな連中と一緒にするなとの抗議があろうが、その場合は、これ以上の表現が自分の辞書になかったので容赦してもらうしかない。過去には提出された裁判官名簿から最高裁判所によって再任を拒否された事例(一九七一年)があった。
   なお、学術会議の前会長であった山極前京都大学総長が、打診をしなかったことが問題だとの意見があるが、山極氏はこうなることも予想してあえて打診しなかったと思われる。これにより問題の所在が明らかになったわけで、会議を批判する人々は感謝しなければならないだろう。
 将棋の藤井八段が王将戦リーグで二連敗したが、人間の能力より将棋の世界が広いというあたり前の結果であろう。今後のさらなる進化につながるであろうが、そのためにも同世代のライバルが必要不可欠である。江戸時代の御城将棋や御城碁は時間無制限であり、打ち掛け後は関係者を総動員して次の日の対局に備えたそうだ(このあたりは過去の記憶により、少しあいまい)。囲碁は井山-芝野による名人戦に加えて井山-一力による天元戦が始まった。従来は主催紙によるネット上での棋譜とその解説が中心であったが、開催地名古屋の中日新聞と日本棋院中部総本部が協力して、午後二時からライブの解説が行われた。日本棋院幽玄の間の中継はあるが、特別な場合を除き有料であるため、視聴者は囲碁のプロ棋士とアマの高段者プラスアルファであろう。著名な「夫婦」棋士(日本と韓国)により漫才的なものであったが、内容もしっかりしていた。
 最近は将棋、囲碁を問わずAIが利用され、形勢判断のみならず、最前手の表示がなされているが、今回はそれはなく、人間のみによる解説であったため、ある意味では新鮮であった。囲碁でも一時は最前手(予想)を表示していたが、最近では形成判断のみである。将棋以上に複雑で本当の最前手はAIでも分からないということなのだろう。今回の一力-井山戦も、白番井山三冠が優勢ではあったが、実際の差はわずかであり、最後に黒番一力碁聖が抜き去って半目勝ちであった。ネット上では最強のAIともいわれる「絶芸」を利用した解説もアップされているが、一時期は井山三冠が勝利する確率が99%になった時期もあったが、実際の差はわずかであった。初戦の勝利により、一力碁聖によるタイトル奪取の可能性は50.1%というところか。それぞれが打ってみなければわからない。井山三冠は芝野戦も残っており大変な対局が続く。藤井二冠もそうだが、秒読みとなるとプロといえども最善の判断は難しいようだ。女流では本因坊戦の合間を縫って本日は第一回博多・カマチ杯の決勝が上野-藤沢の間で行われる。
 昨日は全棋士参加の本因坊リーグの初戦が行われたが、初参加の二棋士はいずれも黒番半目負けであった。相手はレーティング三位の芝野名人と四位の許家元八段である。正しく打てば両方とも黒番半目勝ちであったようだ。早碁の竜星戦では準々決勝の井山-許戦が放映され、井山三冠が勝利した。その前の一力-張戦は、将棋王将戦リーグの放送が伸びたため開始時間が遅れたようだが、対局そのものは七月末に行われたそうだ。放映前には結果を公表できないが、NHK坏はここまでずれない。また日本棋院のサイトの情報の更新はとにかく遅い。

妙法院昌雲について

 昌雲が顕隆娘の所領を継承した経緯は前述の通りであるが、昌雲自身について確認する。僧侶が子を持つことと法然、親鸞との関係を述べたが、一方では崇德院の子重仁の母兵衛佐局も実夫は法勝寺執行信縁であった。法然以前でも子を持った僧侶はたくさんいる。ただし、世俗の関係者の養子になることが多い点が特色であろうか。
 大日本史料データベースを検索すると昌雲は、安元二年五月二七日に明雲が僧正となった跡の権僧正に昌雲が補任されている。明雲と言えば清盛との関係が深かったことで知られている。明雲は村上源氏顕通を父とし、同族の広綱の娘との間に生まれ、藤原家保の娘を室としている。三才下の異母弟雅通は醍醐源氏能俊の娘を母としたが、五才で父が死亡(42才)したため、叔父雅定の養子となり、やはり家保の娘を正室とした。後鳥羽院政前期を主導した通親は雅通と美福門院女房から八条院女房となった女性の間に生まれた。本ブロクでは通親もまた待賢門院・崇德流に属す人物だと評価している。文治元年一二月に頼朝が出した意見書が後白河院の人事に影響しなかったとする元木泰彦氏の見解が誤りであることは前述の通りである。
 寿永二年九月一五日に後白河院が日吉社に御幸した際には天台座主明雲とともに日吉別当昌雲を賞している。次いで元暦元年四月三日には大僧都昌雲が新日吉検校に補任され、八月二六日には上西門院御不予により祈祷を行い、僧正から大僧正に昇進している。そして文治二年には前大僧正昌雲が妙法院門跡を相伝してきたとして、待賢門院御願寺円勝寺寺務執行職に補任されるとともに、妙法院門跡と本尊・聖教並びに寺領庄園を領掌することを後白河院宣で認められている。昌雲が待賢門院とその子である上西門院並びに後白河院と密接な関係を有していたことは前述のとおりである。
 『尊卑分脈』(『大日本史料』引用分)では持明院基宗の嫡子家行(家能)の母について、民部大輔忠成の娘とする一方で、それが家行の祖父基家の子となり、且つ実は昌雲僧正の娘であったとする。最初読んだ時は意味が理解できなかったが、家行の母は昌雲の娘として生まれたが、父が僧籍にあったため祖父忠成の娘となり、さらには持明院基家の養女となってその嫡子基宗との間に家行を産んだことになる。家行の孫が長海本庄地頭基盛であった。長海庄が本庄と新庄に分かれ、本庄は持明院家領となり、新庄が德大寺家領となった背景として、昌雲が円勝寺寺務執行職にあった事があったことは確実である。忠成は俊忠の長子で俊成の同母兄であるが、その長子が東国武士足立遠元の娘を妻として、頼朝と早くから連絡を取っていた光能であった。光能は保元の乱での配流を許されて都に戻った藤原教長の訴えを受けて讃岐院の除霊のために尽力した。光能を単なる後白河院近臣とする理解は誤っている。忠成には德大寺公能妾となった娘、家行の母となった養女とともに、以仁王の妾となり真性を産んだ娘がいた。また忠成の姉妹が公能の正室となり嫡子実定を産んでいる。本ブログで説いている待賢門院・崇德院流の中で藤原俊忠の子が果たしている役割が確認できた。

2020年10月 8日 (木)

長門国向津奥庄について2

 向津奥庄は顕隆により白河院に寄進されたが、その養女璋子が鳥羽天皇に入内し、中宮となる中、璋子(待賢門院)に譲られていたと思われる。信頼が向奥津庄を押倒したのはそれが崇德院領であったとの主張に基づくが、実際には上西門院統子による継承が認められていたため、昌雲は上西門院に訴え、庄園の復活が実現した。ちなみに、長門国は久安五年に藤原家頼が国守に任命されてから、平治の乱までは、忠隆の子が国守となっていた。それが乱後は信頼の没落により藤原親雅が国守となった。木村氏が二度目の庄園の停廃を行った長門守が藤原隆輔とされるのは単純なミスであろう。親雅の父親隆は顕隆の異母弟で、摂関家家司を務める一方で待賢門院判官代であったが、待賢門院の死後は鳥羽院・美福門院との関係を強めおり、平治の乱後は美福門院庁の別当として、女院庁下文の署判者としてみえる。親隆が一才違いの同母兄朝隆の死亡により、その子朝雅を養子として親雅と改名させて出雲守とし、長門国とともに出雲国の知行国主となった事はすでに述べた通りである。
 こうした状況の中、領家昌雲は向津奥庄を上西門院の一才下の同母弟後白河院が新たに勧請した新日吉神社に再寄進することによって、国衙の介入を防ごうとしたのだろう。領家の意思により本家の移動が行われることは珍しくなく、且つ後白河院は上西門院の同母弟であった。こうして向津奥庄の体制は安定したかにみえたが、治承・寿永の乱で庄官であった豊西郡司広元が平家方となったため、没官領となった向奥津庄には東国御家人大江景国が地頭に補任された。景国は近江国香庄を相伝してきた大江通国の猶子となった藤原景遠の子で、源頼朝の子貞暁の扶持にあたり、乳母夫になったが、文治二年七月には向津奥庄における武士の狼藉を朝廷が幕府に訴え、頼朝も狼藉を停止させることを約束している。その後の状況は不明だが、建久八年に頼朝は向津奥庄地頭職を新日吉社に寄進し、新日吉社による一円支配となった。
 頼朝は崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局を御親戚と呼んだが、それは局との関係ではなく崇德との関係から呼んだものである。そのため頼朝は待賢門院・崇德院の旧領には配慮を加えている。出雲国では待賢門院御願寺円勝寺領長海庄について、領家から地頭員綱による押妨が訴えられると、幕府は員綱を解任して清廉な人物を地頭に起用するように出雲守護安達親長に命じていた。その後長海庄は本庄と新庄に分かれるが、新庄は向津奥庄と同様に領家德大寺氏による一円領となり、本庄は公家出身で将軍に祗候していた持明院基盛が地頭となった。
 以上のように、田村氏と木村氏の分析は表面的部分に留まっていたが、その背景を調べ、考察することで、より多くの注目すべき情報が得られることがわかる。田村氏と木村氏のレベルに留まっている研究が多いのが課題である。

長門国向津奥庄について1

 この庄園を扱うのは大社領と同じ時期に再寄進・立券が行われているからである。この庄園について述べたものとしては田村哲夫氏「防長庄園の地域的考察(続)」(山口県文書館研究紀要3)と木村忠夫氏「長門国」(講座日本庄園史9 中国地方の庄園)がある。『山口県史』通史編にも関係記述があったと思うが、田村氏の論考と大同小異であろう。その成立に関しては永暦二年二月二六日後白河院庁下文(妙法院文書)しかなく、要はここからどれだけ情報が引き出せるかである。田村氏は鳥羽天皇の時代に立券が行われ、妙法院の庄園となったとする。永暦二年の四十余年前に立券されたとあるので天皇は問題がないが、後者は誤りである。永暦二年に妙法院主昌雲が新日吉社に寄進したものである。妙法院は天台三門跡の一つであるが、後白河院がこれを京都に移した。新日吉社も同様に後白河院が日吉社を自らの御所のある法住寺内に勧請したものである。
 向津奥庄は昌雲が継母である藤原顕隆の娘から譲られた私領であった。木村氏が昌雲を藤原道長の子長家の五代の孫であるのとしたのは正しいが、問題はここからである。昌雲は俊成の同母兄忠成の子で、頼朝と早くから関係を持った光能の弟(同母か異母かは不明)である。忠成・俊成の母は伊予守藤原敦家の娘であり、顕隆の娘との直接的関係はない。関係があるのは忠成の父俊忠である。前述のように藤原家政に嫁いだ顕隆の娘が、雅教を生んで間もなく家政が死亡したため、俊忠に再嫁し、その間に豪子、俊子などを生んでいる。昌雲の父忠成が一〇九一年生まれに対して、顕隆の娘が家政との間に雅教を産んだのは一一一三年であり、顕隆の娘は忠成の継母であるが、年下であった可能性が高い。そのため、昌雲が顕隆の娘の所領を譲られたのだろう。
 以上を踏まえると、向津奥庄は顕隆が白河院に寄進する形で成立し、その死後、顕隆の娘を通じて昌雲に譲られたことになる。寄進時の長門守は高階能遠かその後任の藤原有業であろう。能遠は系譜上の位置づけが未確認であるが、忠実の家司を務めており、摂関家当主の日記に散見する。有業は資業の兄弟広業系日野氏の行家の子で、母は藤原南家実範の娘である。実範の孫には熱田大宮司となった季範がいるが、それ以上に注目されるのは、有業の母方の従姉妹に顕隆の正室となり、鳥羽天皇の乳母となった悦子がいることである。悦子の子には嫡子顕頼、顕能と崇德天皇の乳母となった栄子(忠隆の正室)がいる。これにより向津奥庄の成立は日野有業が長門守であった元永元年(一一一八)初めから後任の高階経敏(信西入道の養父)に交替した大治元年(一一二六)初めまでであろう。長門守有業は璋子が産んだ崇德以下の子の誕生に伴う行事で役を負担し、忠通の娘聖子が崇德天皇に入内した大治五年二月には中宮権大進に起用され、五月には大進に昇進している。長承元年五月一五日に四五才で死亡した事が、資業流日野氏の娘を母とする中御門宗忠の日記『中右記』に記されている。
 保元の乱後に藤原信頼(その母は顕頼の娘)が知行国主となると、初めて「押倒」されて公領に戻されたのであろう。そこで領家昌雲は上西門院(統子内親王)に訴え、庄園として再度認められた。問題はなぜ訴えたかである。統子内親王は待賢門院の娘である。保元の乱までは待賢門院領は崇德院が管理していたが、院が保元の乱で讃岐国に配流されたことが、信頼による押領をもたらした。御願寺領(円勝寺、法金剛院、成勝寺)は存続を認められたが、崇德院自らの庄園は没収されたと思われる。中には待賢門院庁分領から崇德院庁分領となったものもあった。待賢門院領は原則的に統子内親王領となり、崇德院領で没収されたものは結果として後白河院領となった。

 

2020年10月 7日 (水)

石見国の承久新恩地頭

 伴氏が益田氏と同様の国御家人ではなく、国外から入部した御家人(以下では便宜的に東国御家人とする)である可能性が高まった事を述べたが、次の問題は鎌倉初期かそれ以降かである。後者の代表例は承久の乱である。淡路国では守護佐々木経高が御家人を率いて京都大番役を務めていたため、多くの御家人が没落して、新たに東国御家人が地頭となった。ただ、中には鎌倉初期に淡路国内の所領を得て、さらに承久の乱の恩賞として新たな所領を加えた例がみられる。淡路国大田文をみればわかるが、そこでは乱以前から国御家人が地頭となっていたが、乱で没落したように記されている。これについて石井進氏が、国御家人の場合は地頭と記されていても、実際には庄官や郷司であったとの説を出され、中野栄夫氏が同意された。当ブロクでは明確な根拠が無い限り、石井氏の説は成り立たないことを述べたが、五味文彦氏は大田文の記載に疑問を出されていない。これが当然の考えである。
駿河国御家人が梶原景時討伐の恩賞として、淡路国の旧梶原氏領を与えられたが、本領が駿河国であったため、経高に率いられず、乱では幕府方となったものである。石見国でも同様の事例が考えられる。鎌倉初期に石見国内所領を得たが、承久の乱では守護佐々木広綱とは違い、幕府方になったものである。
 相模国御家人土屋氏は土肥氏や小早川氏と同族で、出雲国と石見国内に所領を獲得している。平家との関係が深かった蓮華王院領加賀庄や大原郡福田庄は鎌倉初期に獲得したものである。これに対して秋鹿郡秋鹿郷は乱以前は有力在庁官人中原氏の所領であり、乱の恩賞として獲得したものである。石見国でも大田郷(南北)は鎌倉初期に獲得し、桜井庄は乱で獲得した可能性が高い。石見国での承久新恩地頭としては田中稔氏が指摘した長野庄内美濃地黒谷郷地頭菖蒲氏と内田氏関係文書によって知られる長野庄内豊田郷と那賀郡貞松名が知られるのみであったが、本ブロクでは那賀郡宇津郷を新たに加えた。そこでは、田村資盛が鎌倉初期に来原郷と長野庄内白上を得、資盛の子で武蔵国越生氏に養子に入り、越生郷内岡崎村を譲られていた有政が、承久の乱で宇津郷を得たとしていたが、久留島典子氏により公開された長野庄関係者の系図を踏まえると、田村資盛が石見国内の所領を得たのは承久の乱の恩賞と考えるべきとすべきである。資盛が鎌倉初期に石見国に所領を得ていた場合、武蔵国御家人越生氏との婚姻が成立する可能性が低い。以上のように、長野庄内白上郷と那賀郡来原郷も承久新恩として資盛が獲得し、子である盛家と盛次に譲り、越生氏に養子に入っていた有政もまた乱で恩賞を得たのである。
 伴氏の場合も石見国内に広く分布する所領の一部が鎌倉初期に得たもので、その後、承久新恩地頭として新たな所領を与えられた。後者の候補となるのは河上郷、都治郷、都野郷、有福などの国内中央の処領である。石見国では承久の乱以前の守護佐々木氏領が不明であるが、長野庄内の所領とともに那賀郡内の所領がその有力候補である。とりあえず、モンゴル襲来時に更迭された伊藤氏の所領稲用郷が守護領だということが確認される唯一の所領である。

然阿の父円尊について

 然阿について述べる中で、父円尊が従兄弟藤原基定の子経成が国守であった関係で石見国三隅に下向した可能性が高いことを述べた。その一方で、円尊が妻帯して子をなした事について、法然の弟子親鸞の存在が頭の中をよぎった。また、知行国主である九条兼実と法然の関係もおぼろげながら気になっていた。後者については、兼実の嫡子良通が文治四年二月に二二才で死亡したことが、専修念仏を説く法然に深く帰依するきっかけとなったそうだ。法然が『選択本願念仏集』を著したのは兼実からの要請による。とはいえ、兼実は法然が説くように、自分のような俗人や破戒僧でも往生できるかとの疑問があったようで、その疑問を解くために兼実の娘を妻としたのが後の親鸞だともいわれる。また、法然は承元元年に念仏停止令が出され、一〇ヵ月間讃岐国に配流されたが、国内の九条家領を拠点に布教活動を行った。その前年の建永元年四月三日に讃岐国は大炊御門頼実の知行国となったが、前任者は兼実の二男良経であった。兼実は建仁元年一二月に室であった藤原季行の娘(良通、良経、良尋並びに後鳥羽天皇中宮宜秋門院の母)が死亡したことをうけて翌二年正月に法然を戒師として出家し、円証と号した。兼実の同母弟に天台座主をつとめ、『愚管抄』を著した慈円がいたことは良く知られている。一方、法然には円光大師という号がある。これそのものは元禄一〇年正月に東山天皇が与えたものであるが、法然が九条兼実邸で頭に円光を頂き、蓮台に乗っていた姿にちなむものである。然阿の諱良忠と兼実の男子九人がいずれもその名前に「良」を付けていることも関係があろう。
 然阿の父円尊の号も同様であろう。そして円尊が石見国に布教のため下向した背景として、従兄弟の子である藤原経成が国守となった建久三年七月から知行国主が源(土御門)定通に交替した元久二年四月まで、石見国の知行国主は兼実の関係者であった。具体的には兼実の子良経、九条家家司でもあった藤原光長(吉田経房の同母弟)子長房、兼実の同母定兼房が知行国主であった。円尊が石見下向後の正治元年に、伴氏女子との間に子然阿(良忠)が誕生したことも法然の弟子であることで理解できる。この当時の三隅は益田庄内納田と呼ばれ、益田氏惣領兼季領であったが、兼季の死により弟兼信が最終的に譲られた(それ以前から入部していた)。
 それとともに、益田庄は藤原忠通の娘で崇德天皇の中宮となった皇嘉門院聖子領であったが、養和元年一月に女院が死亡した後は九条家領となった。那賀郡と迩摩郡にまたがる大家庄も同様であった。益田市内の浄土宗寺院は宗教法人名簿では四件だが、七尾町の暁音寺、中須町の福王寺あたりは、円尊や然阿の影響を受けている可能性が高い。前述のように大田市には県内最多の十七の浄土宗寺院があるが、中世の波根地域が六ヶ所と特に目立つ。波根は鎌倉初期に然阿の母伴氏女子の同族伴(冨永)氏の所領であった。鳥井(二、数字は現在の浄土宗寺院数)、温泉津(五)、福光(一)宅野(一)は鎌倉初期には益田氏領であった。大家(一)、大森=佐摩(二)と前述の温泉津・福光は大家庄内の所領である。それ以外の大田(二)、川合(一)、五十猛(二)、仁万(一)も公領であり、残る大国(一)は大国庄内であるが、庄園領主は不明である。三隅以外の浜田市内には八件の浄土宗寺院があるが、小石見郷(五)、周布郷長浜(一)、伊甘郷(一)、福屋郷内今市(一)とすべて益田氏領である。
 残る江津市には七件の浄土宗寺院があるが、都野津(二)・江津(一)は伴氏領都野郷内で、市村(一)と上河戸(一)も伴氏惣領河上氏である。残る市山(一)、川越(一)は兼実の弟慈円が座主であった比叡山常住院領桜井庄内である。前述の安濃郡内大田は鎌倉初期に相模国御家人土屋氏が入部し、桜井庄も遅くとも承久の乱後には土屋氏領となっている。土屋氏領となる前は石見国衙の有力在庁官人ないしはその一族の所領であったと思われる。
 以上、瓢箪から駒という感じで、書き始めた時点では然阿の父円尊が石見国に下向した背景と、妻帯して子をなしていた事が中心であったが、石見国内の浄土宗寺院の多さの背景の一端を明らかにできたのではないか。

2020年10月 6日 (火)

島根県宗教法人名簿から

 然阿上人が拠点とした三隅の寺院とはどこだろうかと思い、宗教法人名簿(二〇一九年末現在)で確認した。この名簿の存在を認識したのは、県庁総務課で作成を担当した職員を通じてである。
 然阿の諱=良忠をその名称に付けた浄土宗寺院が浜田市三隅町向野田にあるが、ネット上の情報は名称と所在地程度である。一方、鎌倉光明寺のHPには「記主良忠上人について」というその生涯を記した記事が掲載されている。『然阿上人伝』をわかりやすく述べてある。光明寺は浄土宗の内、西山浄土宗の総本山である。
 そもそも浄土宗については開祖法然以外は知識がなく、浄土宗側から高校日本史教科書の記述について、あたかも浄土真宗の方がすぐれた教えだとの先入観を抱かせないように配慮を求めた記事をみて、確かにそうだと思った。県内に気になる浄土宗寺院があったが、その程度であった。浄土宗は鎌倉時代には大別して四流に分かれたという(この外にも小グループあり)が、中世末まで生き残ったのは西山義と鎮西義であるという。このあたりは孫引きであるのでこのような曖昧な記述しかできない。
 良忠は三四才で石見に帰ると、多陀寺に籠もって修行したとあるが、多陀寺は真言宗寺院に分類される。勤務校の畳ヶ浦への遠足の折にそのそばを通り、名前だけは承知していた。五年の修行後、九州に下向し、出身地で布教にあたっていた鎮西義の祖弁長の教えを受け、その後継者となった。光明寺のHPでは初代法然、二代弁長(聖行坊)、三代良忠(然阿)としている。その後、再び石見に帰り、中国地方での布教を一〇年務めた後に関東への布教に着手し、鎌倉では光明寺の前身となる寺院に居住した。七八才の時には京都の門下の招請をうけて上洛し、八八才で鎌倉に戻って八九才で入滅した。ということで、現在の良忠寺が石見における拠点であった。三隅町湊浦にも浄土宗極楽寺があるが、情報がない。とりあえずは社寺明細帳で確認したい。
 現在の全国の神社数は八万以上とも八万八千ともいわれ、寺院数の倍だという。それに対して島根県は両者がほぼ同じで、神道系が一二三三、仏教系が一二九三である。その他、キリスト教系が四四、諸教系が一三四である。不勉強だが、近世末から明治にかけて教派神道とされた中で天理教のみが諸教系で、金光教、黒住教、大本は神道系である。以前、広瀬町山佐で横穴墓を発掘したことがあるが、工事中に発見され、とりあえず安来から大本の関係者を呼んで儀式を行った上で破壊しようとしたら、県の大森埋蔵文化財調査員の知るところとなり発掘を行った。人骨の保存状態が大変良く、鳥取大学医学部が持ち帰った。ところが、現在の名簿には安来には大本は存在しない。大本は戦前の政府から弾圧を受け、これをモチーフとしたのが高橋和巳『邪宗門』であり、天皇の戦争責任を追及するなど、ありえなかった戦後史を模索した。
 神道系、仏教系とも最多は出雲市で、二位は神道系では松江市であるが、仏教系では大田市がわずかに松江市を上回っている。人口比では大田市における寺院の多さが目立つが、これも石見銀山繁栄の残滓であろうか。仏教系では「真宗」(多くのグループに分かれている)が最多で、曹洞宗がこれに続く。三位以下は臨済宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗の順となるが、浄土宗寺院の最多も大田市で、出雲市と松江市が続いている。現在は過疎化の進行で、寺社とも急速に減少している。明治における神社の統合もあり、それ以前の近世における寺社の所在地について確認して地図上におとしておくという作業の重要性を認識させられる。

2020年10月 5日 (月)

宇賀庄について

 建武二年三月一八日後醍醐天皇は宇賀庄地頭職を鰐淵寺根本薬師堂(南院)に寄進した(鰐淵寺文書)。後の鰐淵寺僧頼源文書目録には「一統の頃、京都で秘計を致して給わった」と記しているが、仁多郡三処郷(横田庄と同様に、北条時輔の母である尼妙音の死後、地頭職は幕府が管理していた)と違い、その後、宇賀庄に関する文書は残っていない。『大日本史料』では宇賀庄を楯縫郡に比定しているが、楯縫郡にあるのは近世の宇賀村であり、初歩的間違いである。近刊の『鰐淵寺文書』(この本にも初歩的間違いがあることは前述のとおり)には何の注記もなかったが、『南北朝遺文』にはやはり楯縫郡との注記がある。中世の宇賀郷は出東郡であり楯縫郡ではない。宇賀郷地頭職が寄進された場合、後にそれを「宇賀庄」と呼ぶことはあるが、宇賀庄地頭職と呼ぶことはない。皇室領塩冶庄とは塩冶郷地頭職が寄進されたものである。常に感じるのは「何も考えない」からこんな初歩的間違いをするというものである。
 宇賀庄は攝籙渡庄の内、法成寺領であるが一四世紀初めと半ばの目録では宇賀庄については領家が記されていない。その意味は不明だが、平等院領富田庄でみたように、領家については氏長者が交替する度に変更される可能性が高い。文永八年の宇賀庄地頭「因幡左衛門大夫」とは六波羅評定衆で、備前・備後守護であった長井泰重である。泰重の子孫は幕府滅亡後も生きのびているが、一部は所領を没収されており、宇賀庄地頭職は建武政権によって没収されたことになる。三月一八日という日が後醍醐の皇女が誕生した日であることは前に述べた。
 宇賀庄が注目されるのは禅僧(この時点では臨済宗と曹洞宗の区別は明確ではない)孤峰覚明が元亨二年に招かれ後の雲樹寺の前身となる施設が牧新左衛門入道善興の支援を受けて開基されたことである。以前は牧氏=御内人とし、この時点で得宗領となっていたと考えたが、依然として長井氏領であったとの考えに修正した。長井氏は公家出身の大江広元の子孫であることもあって近衛氏領の管理にもあたっていた。その後、覚明が後醍醐天皇から国済国師、後嵯峨天皇から三光国師の称号を与えられたことは良く知られている。
 ここで注目するのは覚明関係史料(雲樹寺蔵)に、覚明は無欲の人で、本家(当時の宇賀庄を支配する摂関家氏長者)より雲樹近辺福頼庄を一円に寄進するとの申し出があったが、末世の余殃(わざわい)に鑑み、所領と賞ともに本家に固辞したことが記されている。福頼庄の所在が不明でもあったのでこの史料に着目したが、出東郡内の宍道湖西岸南部に所在したことを確認できた。宇賀庄は佐陀社に次ぐ出雲国第二の規模を持つ庄園であるが、宇賀庄が渡庄であるゆえに、近衛家領福頼庄の寄進を申し出たのであろう。この前後の時期に近衛家関係者で氏長者となった人物が問題となる。となると、元徳二年一月と建武元年二月に氏長者となった近衛経忠となる。当時の近衛家では家平の孫である経忠と基嗣が氏長者をめぐって対立していたが、経忠は後醍醐天皇の信任を受けて氏長者となった。最初は一族内の問題により、後者は吉野へ遷幸した後醍醐天皇の後を追って京都を出奔したために長者の地位を失った。
 後醍醐の信任を得ていた経忠は近衛家領福頼庄を寄進しようとしたが、覚明が固辞した。固辞しなかった場合でも、経忠が京都から出奔し氏長者とともに近衛家当主の座を失ったため、寄進が無効になった可能性が大きい。いずれにせよ、近世の記録に記された近衛氏による福頼庄寄進の申し出は事実であった。
 嘉慶二年九月二六日に山名氏之(幸)が宇賀庄内の所領を雲樹寺に寄進しており、氏之が宇賀庄地頭であったことがわかる。康暦の政変で京極氏に代わって出雲守護になった際に京極氏領を得た可能性もあるが、南北朝動乱の初期以来、伯耆国から出雲国に攻め込み南朝方を討伐する中で山名時氏が室町幕府から与えられた可能性が大きい。明徳の乱で山名氏之は満幸ではなく惣領時煕と行動を共にし、乱後は伯耆国守護に補任されたが、宇賀庄地頭職は一五世紀後半の一時期、嘉吉の乱での追討から復してきた赤松政則に与えられたり、幕府御料所となり奉公衆杉原氏が管理していたこともあった。一方、宇賀郷地頭であった遠江国御家人西郷氏が南北朝期以降も宇賀郷地頭であり、戦国期まで生きのびたことはすでに述べたとおりである。

2020年10月 4日 (日)

藤原季行の妻

 季行の妻である中御門宗能の娘が姝子内親王の乳母となった時期を、康治二年頃としたが訂正する。宗能の嫡子宗家は保延五年(一一三九)、宗能五五才時に生まれている。母は藤原長実(一一三三没)の娘である。宗忠には藤原為隆の娘との間に生まれた男子も四名以上いたが、晩年の子宗能が嫡子とされた。宗能の娘(宗家の同母姉である可能性が大きい)が季行との間に嫡子定能を産んだのは久安四年(一一四八)である。季行は三五才であった。宗家の母である長実娘は得子(一一一七生)の妹である可能性が高い。季行と得子の関係は康治二年にまで遡るが、季行と長実孫娘との結婚は定能誕生の少し前であろう。季行が美福門院別當となったのは定能誕生の翌年(一一四九)である。季行の同母兄季兼も『山槐記』仁平元年一〇月一六日条には中宮(呈子)亮としてみえる。中宮呈子は藤原伊通の娘から、美福門院の養女となり、次いで藤原忠通の養女として近衛天皇に入内していた。
 仁平二年一〇月には呈子の懐妊着帯が行われ、一二月二二日には産所とされた季行宅に移り、安産祈願もなされたが、予定日とされた翌年三月になっても出産せず、九月になって懐妊は誤りであったことが確認された。季行宅が産所に選ばれた背景には、兄季兼と呈子の関係とともに、季行と美福門院の関係があったと思われる。産所への移動に供奉したのは、大納言伊通(呈子父)、権大納言成通(伊通の同母弟、中宮大夫重通の同母兄、姝子内親王の勅別当)、三条公教(母は顕季の娘)、権中納言忠雅(母は家成の娘)、参議為通(伊通子、中宮権大夫)であった。
 以上により、季行の妻=宗能の娘=長実の孫娘が同じ長実の孫娘である姝子の乳母となったのは久寿元年の内親王宣下の少し前であったと思われる。

 

2020年10月 3日 (土)

中御門宗忠の子達

 以前、因幡守宗成について述べた際に、五味文彦氏が知行国主父宗忠のもとでの国守であるとされたのに対して、さらにその上に分国主として白河院がいた可能性があると述べたが、宗成は五四才であった保延四年四月一一日に正四位下参議兼近江権介で死亡しているため、公卿補任でその昇進状況を確認できる。天永二年七月二九日に因幡守に補任されたことについては「功」とのみある。父宗忠が『中右記』(除目の聞書には因幡守補任のみ記す)で具体的な功について述べている。宗忠の功や、異母弟(叔父)である故忠良の功を併せたものであったが、それを後押ししたのが殿下(忠実)の広恩であった。『殿暦』にも余申すに依る也とある。病死した前任者長隆が摂関家家司であったことも影響したであろう。因幡守に補任された天永二年の時点で宗成は二七才であり、前任の長隆同様、知行国主はいないのではないか(このあたりが知行国制はファジーである)。
 宗忠の叔父宗通の子達は院分国の国守を経験しているが、宗忠の嫡子宗能は受領を経験していない。右大臣藤原俊家の長子基頼は持明院家の祖であるが、受領や鎮守府将軍に留まり、異母弟宗俊が権大納言にまで進んだ。俊家晩年(五三才)の子宗通は母が白河院の近臣藤原顕季の娘であったこともあり、権大納言になるとともに、院の寵臣となった。これに対して宗忠は摂関家との関係を強めていた。基頼が五一才の時に嫡子となる通基が誕生している。基頼自身は八三才まで生きているが、将来を考えて通基は一九才年上の叔父宗通のもとでその子達とともに成長した。名前に「通」が付いているのはそのためである。通基は待賢門院別当であったが、鳥羽院別当にはみえない。
 宗通の子は伊通と成通が両方の院の別当としてみえるが、宗忠の子宗能はみえない。宗能は崇德天皇のもとでは昇進を重ね、中宮(聖子)権大夫にもなったが、近衛天皇のもとでは久安五年七月に権大納言に昇進した程度である。久寿二年九月の後白河天皇の即位時に守仁親王の春宮大夫となり、保元の乱後の九月に大納言に昇進、永暦二年九月に内大臣になっており、二条天皇派であった。後白河院のもとでも下文の署判者としてはみえず、美福門院庁下文に別当として署判をしている。宗能の娘が藤原季行の妻となるとともに姝子内親王の乳母となったことも忘れてはいけない。宗能の経歴をみるとまさに待賢門院-崇德流に属していたことがわかる。

2020年10月 2日 (金)

橘木社と佐陀社

 過去にも述べたことがあるが再確認する。両者は康治二年八月一九日の太政官牒では安楽寿院の末社二ヶ所として一括して扱われている。橘木社は上総国二宮であり、佐陀社も二宮と呼ばれた事はないが、出雲国内の神社では一宮杵築大社に次ぐ存在であった。
 橘木社は保延六年に藤原通憲(信西)から安楽寿院に寄進され、翌永治元年に院司が派遣され立券しようとしたが、上総介小槻師経のもとで、在庁官人と隣接する庄園から異論が出され、立券は延期された。永暦元年二月には美福門院が故信西入道の娘蓮西を預所に補任している。問題は如何にして信西が上総国との関係を持ち得たかだが、長承元年一二月二五日の除目で、上総介、信濃守、肥後守が相博されている。上総介藤原親隆が信濃守に遷任し、信濃守藤原盛重が肥後守に遷任している。問題は肥後守から上総介に遷任した人物であるが、これを記した『中右記』はその部分が判読不能である。
 その直近に肥後守在任が確認できるのは高階泰重である。泰重は出雲守や近江守を務めた重仲の子である。系図では若狭守のみ記されているが、阿波守在任も確認できる。そして信西が重仲の娘との間に多くの子をなし、その一人澄憲の子恵敏も橘木社に権益を持っていること、嘉元四年時点の領家が泰重と藤原宗兼の娘(池禅尼の妹)の子で後白河院の寵臣であった高階泰経五代の末裔泰継であることから、泰重が肥後守から上総介に遷任したことは確実である。ただし、立券時には小槻師経が国守であったので、鳥羽院領といえども厳しい対応をした。
 佐陀社神主については、鎌倉初期の領家円雅が花山院(藤原)兼雅の子円雅であることはすでに述べた。この石井進氏の説に対して、保立道久氏が幕府と早くから連絡していた源雅頼の兄雅綱の孫円雅説を唱えられたが、ポイントは花山院忠宗・忠雅父子と鳥羽院の寵臣藤原家成の関係である。忠宗は藤原師実の孫であるが、顕仁(崇德)親王家侍所別当、中宮(璋子)権亮を経て、天治元年一一月には院号宣下を受けた待賢門院の別当となる一方で、保安四年正月には崇德天皇のもとで蔵人頭に補任され、大治四年一一月三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、大治六年一二月には中宮(忠通の娘聖子)権大夫となっている。
 忠宗が長承二年九月に四七才で死亡した時点で子(花山院)忠雅は一〇才、同母弟(中山)忠親は三才であったため、母の実家である藤原家保邸で育った。家保の子家成は忠雅より一七才年上で、その娘と忠雅との間に生まれたのが兼雅であった。佐陀社は家成を領家として寄進・立券され、家成娘、兼雅をへて円雅に譲られたと思われる。橘木社が寄進された保延六年時点の出雲守は藤原光隆で、父清隆が知行国主であった。清隆は大治五年から保延三年初めまで越後守であった。長承二年七月末には中御門忠宗が小泉庄について国司免判を求め、大殿忠実にも協力を依頼しているが、その甲斐あって八月末には国司庁宣を得ている。大社造営が開始されていたが、待賢門院庁(保延元年の東大寺文書では署判者として「左京大夫兼右馬頭摂津守藤原朝臣」がみえるが、これは「左京大夫兼左馬頭播磨守」の誤りである。)と鳥羽院庁でともに別当を務めていた家成による寄進・立券を容認した可能性が高い。
   家成を鳥羽院と美福門院との関係のみでとらえるのは、保延元年の待賢門院牒の署判者としてみえること、崇德天皇の御願寺成勝寺に所領を寄進していること、そして嫡子隆季の動向からして誤りである。

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